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イニシャルHの研究

「アイダよ、何処へ」の感想

「アイダよ、何処へ」

どことなく不思議な温度感があって、コメントを難しくさせる作品だと感じた。アイダは常に紛争そのものに加えて、国連の無力さやセルビア軍の野蛮さに対する怒りを抱えていた。そのいずれかは作品の要素として、物語に何か筋を通しているはずだし、普通それらはかなり過激な情熱が伴うと思うのだが、この作品はどことなく冷めているようにも感じる。劇中、唐突な無表情のダンスパーティのシーンが差し込まれるのだが、まさにあのような違和感と(どちらかというと良くない意味での)透明さがあった。国連ないし国際協調を進める国際機関が使い物にならない(というかあまりにも無力)という主張は、かねてからの毎度紛糾する安保理決議のお話だとか、最近のコロナウイルスに関連するWHOの(少なくとも日本における)存在感の薄さの中で、割と一般にも受け入れられると思う。でも、その組織がクソだからといっても、「クソはクソなりにやってんだろ!クソが!」と言わんばかりの大佐の中間管理職仕草の数々を目の当たりにすると、なんだか否定できなくなってくる。それどころか、「いや、それは無理だろ」と思わず言いたくなるほどの、アイダの家族に対する頼み込みが、なんだか「横暴」に見えて不快感すら覚えるようになるのだ。実際、この点については劇中で長子が直接アイダに伝えるシーンがあったはずだ。

 この作品の一番怖いところはそこだ。みんな死んでしまうのに、自分を犠牲にしようとしてでも、なんとか家族を守ろうとするアイダ。どう考えても美しいし、強いし、称賛されるべきふるまいなのだ。なのに、これを神の視点――というよりも、組織の論理――が見える立場に立つと、まったく無理な要求にしか感じられなくなるのだ。あれ、僕ってそんなにひどい奴だったっけ?そうなのかなぁ。でも職員が確かにバレたら殺されるんだし、協力できないよね、そうだよね……。なんかこの人わがままだな……そう思ってしまう自分がいることに気づいて、それが怖い。どう考えてもおかしいのだが、「パンを与え、女子供を守るセルビア軍と比べて国連は……」と、国連disさえ浮かび上がってしまう。どちらが道徳的に正しいのか、ということを一旦おいて、僕はちゃちな感性で国連を(その前はアイダを)否定しようとしてしまったのだ。いや待てよ、と。男をこんだけ殺戮してますぜ、あんた。と、心の僕が呼びかける。だけど、作者があのシーンを織り込まなければ、忘れていたかもしれない。その自分がとにかく怖かった。

 作者がこの作品にこめたであろう思いは、作品にはすぐには出てこない。むしろ、その反対側に鑑賞者を向かわせてみるような構成があって(僕はそう感じて)、だからこそそれが素晴らしいなと感じた。帰ってきたヒトラーも、ポップなヒトラーの扱いに常に笑ってしまう自分がいる一方で、背中にはいく筋もの冷汗が垂れ落ちる感じだったのだが、あのときの感覚も部分的には似ているかもしれない。うーん。

 

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これはだいぶ前に書いた感想で、もともとは本の感想も足し合わせてもっと長くなるはずだったのだが、元気がなくなったのでいったんこれだけ置いておく。

今読んでいる本は、沈没船の水中考古学、クジラのストランディング、目の見えない人との美術館巡り、日本の古典的ファンタジー言語学のエッセー、台湾の不思議な小説などです。機会があればこちらもまた。