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イニシャルHの研究

ポール・オースター『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』を読みながら

3月に読んだのはデジタル罠、ロシア絵本(1930s)、音楽の危機、椿井文書、セイバー罠、経済政策で人は死ぬか、日本の地方議会、日本の地方政府、ファンソ(東声会)、川喜田壮太郎の旅行記あたり。この辺もメモ書きを拾ってこないといけない。図書館が再開したら、許永中というかイトマン事件の書籍を色々読みたいと思っているけど、いつになるやら。実務本の方が先かな。

 

 さて、この前、久しぶりに本屋に寄って、さぁ何にしよう、柴田元幸のSF翻訳の新刊とフルーツサンドと女優の回のuomoと田島列島の新作でも買おうかな、と思って店内をうろついたのだけど、ことごとくなかった。まぁ地域の本屋って感じのこぢんまりとしたお店だったし仕方がないのだけど、どうも諦めきれずに本棚を見て回っていたら、ポール・オースターの本が色々あったので4冊ほど買ってきた。

そのうちの1冊(正確には前後なので2冊)が表題の『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』。オースターがラジオ番組で募集した、「リスナーの人生の一節の物語」をまとめた本で、いろんな地域や年代の人々の、人生におけるちょっとした奇跡や半生をつづった投稿を、「愛」、「死」、「家族」などのカテゴリーごとに掲載している。まだ全部読んだわけではないのだけど、短いものなら1ページ程度、長くても数ページに過ぎない物語のアンソロジーなので、どこから読んでも、どの程度読んでも、感想はそこまで変わらないと思う。

 この本で紹介される物語の多くには、オチがない。ストーリーラインの構成として、「オチのようなもの」がある話は確かにある。だけど、映画タイタニックみたいな、終わりました!というような雰囲気はない。人生は続いていくし、人生は続いてきたのだと感じさせる。それぞれの物語の余白はあまりにも大きく、それは余韻というよりも、結末の不在というニュアンスが強い。

 オースターは序文において「文学ではない」ということを述べている。それが上記のような点を指していたのかはわからないが(もっと文学的な技量の問題かもしれない)、僕にもそのような点は同意できる。物語はそれなりの舞台を整えたうえで、ある程度納得できるような幕引きが存在する。それが創作なのだと僕は思っている。語られるエピソードは、それが不幸であれ幸運であれ、物語にふさわしい奇跡や偶然、急展開、波乱を含むものが多い。それでも、それが事実らしいというか、現実の人生の一部を切り取ったということだけで、ここまで小説とはかけ離れた世界になるのか、ということが興味深いということだ。

 市井の人にも、小説のような奇跡は沢山起きている。だから、読者である自分自身もまた奇跡に満ちたような自分の人生が、そこまで孤独な(稀少な)人生でもないのだな、と気付きくことができる。人生の相対化は、幸福の含み益を目減りさせることもあるけれど、不幸の含み損を減らす働きもある。

 また、曖昧に始まって、曖昧に終わっていく物語たちの中にこそきらりと光る事実らしさは、それはそれとしての魅力がある。大阪に生まれ育った僕は、オチがない話に出会うと、それだけですぐつまらないと言って切り捨てる感性を持っていたのかもしれない。あるいは、大阪人だから、と規定される中で、そういう役割や感性を訓練して手に入れてしまった気もする。だけど今は、そうではなくて、どこかに続いていく物語の切れ端を愛することができるようになっているらしい。ページを繰りながら、自分の感性の現在地を発見した。そのことも心のどこかで楽しめている。

 こういう感性の変化というのは本当に、この本に集めた物語よりも起伏に乏しい物語にしかならないし、きっとこんなところ以外のどこにも披露されることはない。僕だけの物語なんだけど、だからこそ、僕にとってはとても大事なことだったりする。