Like a notebook

イニシャルHの研究

20211231_今年の備忘録

なんか色々あってここに。

 

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今年は概ね楽しかったです。ただ、自分で書いておきながら、「概ね」って何?いったい、何が足りなかったの?という疑問も湧いています。

そこで、よくよく考えると、僕の充足感というものには、楽しさだけでは充たされないものがあるようです。すなわち、ある程度の苦しさが必要らしいんです。というわけで、これからその塩梅の話をします。

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今年、僕は不動産屋――しかも営業――になりました。しばらくやってみてはっきりしたことは、「(少なくとも今の僕は)全然向いていない」ということです。僕は他人よりも、話し言葉と書き言葉を、特に語彙の点でかなり似通わせる傾向にあります。そのためか、言葉を出すという単純な動作一つに対して、長考しがちです。こういう気質そのものは、善も悪もなく、ただ当たり前のようにそこに存在するだけです。だけど、少なくとも私の今の職種\職場ではあまり有利に働くものでもありません。思考より前に言動が来るというか。


どうしよう。唐代でのシルクロード貿易において活躍したソグド人たちは、子供が生まれた時には口に膠を含ませることによって、商人の才覚として欠かせない口述の技に長けるよう祈る、という風習があったと聞きました。じゃあ毎朝口に膠含んだらいけるかな。無理かな。来世は李世民ぐらいの時代でやり直そうかな……。


……とかなんとか言っていますが、正直なところ、僕はこのプロセスを含めて楽しんでいるようです。かつての僕の憧れだった、ギャングの参与観察で著名な社会学者のスディール・ヴェンカテッシュ先生は、自身の著作の中で「あらゆるところで腰を下ろしてみなさい。うらぶれた街の公園のベンチ、大都会のホテルのスイートルームのソファに……」みたいなことを言っていました。これは「いろんな場所に入り込んで、いろんな世界を見てきなさい」という意味だったと解釈しています。そして僕は、西海岸の黒人街の団地の中にある公園に通って、スケートボードに腰かけた。大都会のクラブでドリンクを片手に体を揺らした。色んな山を、川べりを、森の中を、ビルの隙間を踏みしめて、移り行く雲の流れをじっと見つめていた。そういう一つ一つの体験(あるいは参与観察)のように、不動産という世界に足を踏み込んだことも、「未知の世界に腰かける」ふるまいの一つに過ぎないと思っています。

それでいいのかな、と(メタ的な話かもしれませんが)悩むことはいつでもあります。でも、先月くらいに知り合いに指摘されたのですが、悩むことは僕の趣味らしいです。振り返ると確かに、焦燥感を抱えている僕の隣にはいつも、「この焦燥感を抱えた男は、次にどんな行動をとるんだろう。この物語が面白くなるためには、どんな行動をとれば/とらせれば、いいんだろう」と考え続けている、構成作家のようなもう一人の僕がいます。

その構成作家は、人生をフィッシュカービングのようなものだと考えています。「そうじゃない」世界を僕に沢山歩き回らせて、自分自身の周りに固着している余分な世界を削ぎ落としていく中で、最後に残った何かが僕そのものになるだろう、と考えているらしいです。山肌から滑り落ちた岩が、河の流れの中で転がり続けて、ふもとの街の小川の浅い川床で、丸い石としてじっと眠り続けているように。そして、構成作家は「この過程そのもの」も一つの大事な作品だと思っているようなのです。アンチ成果主義。成果の前のプロセスをも愛する。そういう気質のようです。


だから、色々なところで突飛な決断ほど、強く推し進めようとするみたいです。削り切って鰹節みたいな木片だけが残ったらどうしよう、と思わなくもないですが、それも宿世です。諦めて受け入れていきましょう。

 

自分自身の多面的な嗜好が年々つかめなくなっていて、自制心を保つための心の筋肉も失われているからか、以前にも増して、自己の一貫性がなくなっている気がします。昨日の下書きはもっとちゃんとしていました。主に仕事で扱った範囲での市況のことをぬるっと書こうと思っていたはずでしたし。だから、昨日か明日に書いていれば、もっと違うものになったのかもしれません。それでも、ここまでに書いたことはずっと感覚的に抱いてきたことだから、少なくとも一貫性のある(僕という存在における)事実です。僕がいるべき場所から一歩踏み出すことで、僕はその場所の居心地の良さや、僕の適性、弱みをはっきりと自覚できるようになったと思います。それは、とても良いことだったと思います。


とは言うものの、悩むということは、趣味の割に中々楽でもないものなのです。脳みそをからっぽにして沢山楽しむ時間が、悩む時間と同じくらい必要になるものです。だから、来年も色んな人に沢山遊んでもらって、上手に悩み続けたいと思います。

というわけで皆さん、来年もよろしくお願いします。皆さんが楽しかったら、僕も同じだけ楽しめると思いますので。

それでは、よいお年をお迎えください。