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イニシャルHの研究

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かの偉大なるジョブス御大によって広まった「今日が人生最後の日なら、あなたはどう過ごすか?」という質問をこの頃思い出す。若いころにはその内面的な意味を深読みしては、「はぁ真面目に今日も生きねばならぬのだ」、「私は昨日なぜ怠けたのだろうか」等と自戒の念を込めていたような気もするが、およそこうした方面での感性の豊かさはすっかり失われた。「人生最後でも、いつも通りでいいんじゃないですか」、という言葉がいの一番に心に浮かび上がるようになった。まったくもって張りのない話だ。

 若い時はとかく体力と気力が充実していて、日々における1%の不活性な時間でさえも、無駄と考えられていた。しかしながら、黄泉の国への旅路も半ばを過ぎたこの頃は、毎日元気に生きるための条件がかなり厳しくなってしまい、中々理想だけで乗り切れる人生でもなくなってきた。つまり、不活性と活性をセットで組み込まないと生きていけなくなってきたのだ。

日帰り旅行の翌日には体も頭も上手く働かない。週も半ばを迎えると、朝目を覚ますことが辛い。集中力も昔ほど長くはもたない。ただでさえ飲めない酒は、少しでも体に入れると次の日全く使い物にならない。深夜の飲み会の解散後に、カラ元気を見せることも、もうできない。

今にしてこういう症状が露見している以上は、この先もこの程度がますます加速するのだ。それを思うにつけても、「人生最後の日」は自己実現の道具でもなんでもなく、やがて訪れる現実の宿命にとって代わってしまった。そうともなると、冒頭のジョブス御大の言葉は僕のケツを叩くこともできなくなった。

しかるに、こういう若き血気ある人間たちを奮い立たせる言葉を発する壮年というのは、精力気力に満ち溢れているのだと思う。私はその時期をどうにも得ずして今に至るので、中々悲しいことであるよ。

遺伝子と環境の双方を天秤にかけた不平等論が再燃してい気配も感じるが、少なくともこの活動的な人生の短さ、という点においては、私も遺伝的な素養がなかったことを少し恨めしく感じている。

 

等と、体調不良に伏せる床の上で考えたのであった。