いつか別れるその日まで
ガールフレンドの話ではない。資本主義に脳髄まで毒された今の僕が絵空事を紡いでも大したモノは書けないだろう。そうではなくて、僕の祖母の話だ。
週の頭だというのに21時を回ろうかという時間に退社した。半日後にはまたこの場所に戻ってくるのか、と大変うんざりしながら寝床に続く裏道に入って私用のスマートフォンを取り出すと、知らない電話番号からの着信があった。滅多にないことだったので、宅配便か研究室の関連かと思って電話をかけなおすと、自分の母親だった。そういえば、AndroidからiOSに変えるときに電話帳を移行しなかったんだっけ。
祖母が倒れて、救急車で運ばれたと知らされた。
まぁ、年齢もそれなりだったと思うし、そこでは驚かなかった。
併せて孫の声が聴きたいとの伝言を預かったようだ。そういうわけで、電話番号をSMSで送ってもらって、僕は電話をかけてみた。
5コールくらいで受話器をとった祖母の声は、ずいぶん年老いたものだった。かつての不快感さえ感じさせるほどのエナジーは欠片でさえも見当たらなかった。5年も経てば人は老いるのも当然なのだが、声に死相が出るなんてことが世の中にあるとは思ってもいなかったので、僕は大層びっくりした。それとともに、なんだかあまりにも弱弱しい遠い向こうの女性の声に、ちょっと涙が出てきてしまった。
僕にもこんなにセンチな部分がまだ残っていたんだ、と新しい発見に少し驚きと喜びも感じたのは事実だが、それよりも実感を持った「知っている誰かの死」の衝撃が齢26にしてはじめて自分の真正面にぶつかってきて、これが中々重苦しい。
僕の祖父はどちらも既に他界しているが、基本的には血族の女に生前乃至死後も詰られ続けるほどに名誉もへったくれもない男どもだった。死人に口なしともいうので、その真相はわからないが、飲む打つ買う(打つは殴る方も含む)ような感じだったと聞かされている。そういうわけで、実際に訃報に接したときも、幼いながらに僕は、「あぁ、死んでよかったな」という他人ごとのような感情しか出てこなかった。それは文句ばかり言っていた女系家族にとっての幸せの第一歩なんだと信じていたからこそでもあるし、あるいは文句ばかり言われた男たちへの慰めの気持ちでもあった。釈迦の近所の蓮の上の方が、よっぽど気楽でよいだろうし。なんというか、そうなってくると、彼らの死はある程度望まれた死だったので、僕としては悲しみの湧きようがなかったのであった。
それが今度はどうかというと、実母との深い絆を育んできた祖母である。さすがにこれはリアルな人の死(が迫っている)ということになる。なるほど、もう会えないということがわかるとなると、確かに物悲しさも増すものだな、と実感を持って色々考えるようになった。このご時世では入院患者への面会もできない。手術が不首尾に終われば、そのまま次に会うのは火葬場の簡易ベッドの上になるかもしれないのだ。今さらになって、そういうセンチメンタルにさせる事実が日々僕の胸中を去来しては、頭の中を湿っぽくさせていく。
「あんたは偉い学者さんになると思ってたんだよ。今の仕事は楽しいのか。本当にやりたいことをやるんだよ」
やさしいけど死期迫る女性にこれを言われては、マクベス夫人よりも胸に刺さる。そうだ、お金はちょっぴり増えたけど、僕の幸せはちっとも増えてないさ。何か嫌なことがあっても、フィールド実験のリサーチペーパーは読む元気があるんだ。変な孫でごめんね。やっぱり僕はお金がなくたって、未来が薄暗くたって、今この瞬間の世界を探り続けたいらしいんだ。
「もうあんたはよくやったよ」
それはこっちのセリフだよ。僕が言わなきゃいけないことを、みんな祖母が言ってしまう。5年前よりも小さく、そして優しくなった祖母の口から大人びた言葉を聞くたびに驚いてしまう。釈迦との観念的な距離が近づくほど、人は誰かに優しくなってしまうのだろうか。彼岸への距離が近づくほどに、生気は失われていく。そして言葉には真実とやさしさが含まれるようになる。優しさはつるはしのように乾いた心を掘り下げて、時々涙の間欠泉を掘り当ててしまう。
その日は明日なのかもしれない。あるいは、何年も先かもしれない。誰にもわからない。だけど、その日は確実にやってくるのだ。それはとにかく悲しいことだ。だって僕は一緒には行けないから。僕は(もう半ばを過ぎたといえども)まだ人生を生きていかなければならない(と自分の中では思っている)。じゃあ僕もお供します、なんて言って三途の川でバタフライはしてあげられない。こういうことはいくらでも考えられるし、やがて時がこの悲しみを薄れさせていくことだって、頭では理解している。だけど、今はまだ、感情的な整理がつかない。
あまりにもありきたりなこの手の感情が自分の中にも確かに残っていることは嬉しいことだと思う反面、やはり胸がきゅっと締め付けられる。秋晴れは美しいのに夏ほどの輝きはない。どこか弱弱しく儚い光が肌を照らす。そういう二律背反な感じが、今の僕みたいだな、とこの頃一人でよく考えている。きっとこのどっちつかずな自分は、いつか別れるその日まで、僕の心に同居しているんだろうな。
別にそれだけの話なんですけど。