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イニシャルHの研究

映画「マイスモールランド」について

別のところに掲載していた映画の感想。属性柄かあんまり受けなかったのでこちらに。

17歳のサーリャは、生活していた地を逃れて来日した家族とともに、幼い頃から日本で育ったクルド人
現在は、埼玉の高校に通い、親友と呼べる友達もいる。夢は学校の先生になること。
父・マズルム、妹のアーリン、弟のロビンと4人で暮らし、家ではクルド料理を食べ、食事前には必ずクルド語の祈りを捧げる。 「クルド人としての誇りを失わないように」そんな父の願いに反して、サーリャたちは、日本の同世代の少年少女と同様に“日本人らしく”育っていた。
進学のため家族に内緒ではじめたバイト先で、サーリャは東京の高校に通う聡太と出会う。
聡太は、サーリャが初めて自分の生い立ちを話すことができる少年だった。
ある日、サーリャたち家族に難民申請が不認定となった知らせが入る。
在留資格を失うと、居住区である埼玉から出られず、働くこともできなくなる。
そんな折、父・マズルムが、入管の施設に収容されたと知らせが入る……。(以上、上記HPより引用)

「教員免許をとるために、大学に行きたい」。「時給の良い隣の県でバイトをしたい」。「ちょっと気になるカレと遠くに旅行したい」。
僕の生きてきた世界においては、あまりにもありふれているし、あっさりとかなえられてきた願いたち。しかし、その一つ一つの願いの基盤には、日本における在留資格があり、就労する権利があり、居住県外に出ることを制約されていない、という前提が必要なのだ。僕はそのことを、カメラを通じて異邦人として日本に向き合う中で、初めて気づかされた。

入管に取り押さえられた父親と、ガラス越しに語り合う子どもたち。「なんで?どうにかならないの?」。子供たちが訴える。彼らは昨日までの彼らと何ら変わらない。制度が彼らを突然に分断したのだ。「クルド人は祖国を国境によって分断されてしまった。だから国がない」。父が語るこの言葉は、彼ら家族が、現代の日本において置かれた境遇を暗に示したものではないか。「難民」、「難民じゃない」。昨日の彼らと今日の彼らは全く異なる処遇に置かれた。だけど、彼らは昨日と今日で、まったく違う人間なのだろうか?僕にはそうは見えない。制度が人を分断する。フラクタルな視点の中で、世界の悲劇はいつも繰り返されているのだ。

エンドロールにおいて、この物語は誰か特定の人物や家族をモデルにしたわけではなく、取材を通じて創作された物語であることが示される。そのことは、こうした物語はごくありふれているのかもしれない、ということを示唆させる。

とはいえ、「英雄の証明」みたいにどこか重苦しい雰囲気が終始漂う映画でもない。たぶんそれは、少し主人公たちの世界を遠巻きに眺める視点のおかげであったり、人間的な美しさを持った人々を丁寧に演じている役のおかげであったり、あるいはささやかな幸福もしっかりと切り取る構成の妙味のおかげなのかもしれない。だから、政治的ドキュメンタリーを見るとかいったときに必要な気構えが必要な作品でもない。

ところで、移民の家族が生きていく上で様々な障壁に晒されることは、日本に限られたことでもない。つい最近では、米国における韓国系移民の家族を主眼に当てた「ブルーバイユー」という作品が公開されており、こちらも国際的に高い評価を受けた。

また、クルド人のサーリャは日本語と母国語に長けており、社会生活の維持に不可欠な人材として、クルド人のコミュニティから多種多様な業務(翻訳・通訳)を引き受けており、大家からも同様の依頼を受けている。さらに、母親が既に死去している家庭の中で、母親の代わりとしての役割も引き受ける。彼女は「子供らしく」いることができないヤング・ケアラーとしての役割が描かれている。家族(ないしはコミュニティ)と社会の架け橋としての役割を成年にも満たない女性が担う描写については、「Coda コーダ 愛の歌」においても、物語の重要なテーマとして配置されている。(なぜか予告動画が非公開になってしまっているが)

gaga.ne.jp

ところで、クルド人については、一昨年に公開された「風の電話」にも少しだけ現れる。家族を失った主人公の女性はややあって一人、広島から岩手の大槌町を目指すのだが、その道中、クルド人の人々が彼女に優しく手を差し伸べ、食卓を囲む。帰るべき場所を失った彼女が漂う様子は、帰るべき国のない彼らにとって、響き合う要素を備えていたのかもしれない。(という表現なのかもしれない、というだけの話だが)

僕の志向が他の映画との関連性ということに寄りすぎているのかもしれないが、「マイスモールランド」は現代社会における様々なテーマが射程に含まれている作品であり、その点でも素晴らしい作品だと感じた。

往々にして、知ることとは、己の無力を知ることに等しい。だからそのプロセスはいつも辛さや苦しさを伴うものだ。僕一人にできることはそう多くないのも、その一因かもしれない。だけど、その一方で、知らずして、目を背けたままで、世界は良い方向には進まない。僕は日本国の用意した多様な制度に命を救われた。その意味では、僕は本作品の主人公とは正反対の家庭にいるのかもしれない。だからこそ、僕は制度の網を広げられるように声を上げることができるかもしれない。

もっといえば、世界の情勢不安は「国境」の意味、そのあまりに強すぎるがゆえの影響力を我々に示している。ただ、国境はあくまで、想像の共同体のための「線引き」に過ぎない。制度の網の目を潜り抜けて、ささやかな支援を行うことも、できるだろう。僕自身、覚えきられないほどに沢山のささやかな善意を受けて生きてきた。次は僕が、手を差し伸べられるように――。そういうことを考えながら、僕は家路についた。それがちょっと前の話。

終わり。