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イニシャルHの研究

「バックコーラスの歌姫たち」所感

「バックコーラスの歌姫たち」を京都みなみ会館で見た。2013年に公開された当時から足掛け8年近くの積み残し(積劇とでも言えばいいのか?)の映画作品を、今さらになって解消できるとは思わなかった。長く生きていれば、いいこともあるということかもしれない。2013年当時、僕は自宅で浪人をしていた。ほとんど毎日の朝から晩まで、FM765とFM802を行ったり来たりして、朝の8時から夕刻の18時ごろまでの自習に励んでいた。その時に765の朝の番組を担当してたヒロ寺平が、この作品をとにかく絶賛していたのだった。他にも色々な作品を取り上げていたと思うので、この作品の寸評だけが自分の心に残ったということになる。

 

 表題と原題("20 feet from Stardom")から想像していたのは、ステージのセンターに立つことを夢見る若きバックコーラスの歌手たちの青春群像劇(栄光と挫折)のような作品だった。しかしながら、この作品はそこまで単純ではなかった。何より、ステージの最前線、真ん中に立つスターとなることは最大/第一の欲求とは限らないのだ。それは、かつてソロの歌手への道に挑戦し、夢破れたからこその「気持ちの折り合い」の場合もあるし、自己を抑制して美しいハーモニーを作り出すという作業そのものへの喜びが大きい場合もある。バックコーラスの女性たちは、自身の仕事(と歌声)に強い愛着と誇りを持っている。バックコーラスとして、スティービー・ワンダーローリングストーンズ、スティングなどの名だたる歌手に選ばれ、絶賛される彼女たちの歌唱力は、並外れた才能である。「歌うことは当たり前だと思っていた。だけど、この(天から授かった)才能は幅広く、いろんな人のために使わなければならない」というようなくだりにみられるように、本当に彼女たちは天賦の才能を持っている。その一方で、この作品の主題でもある、「歌手としての才能と、スターとしての才能は異なる」という現実がある。人々の注目を浴び続けられること(これは注目を集めるというだけでなく、そのプレッシャーに耐え続けられることも意味する)、自身の表現したいことを突き詰められること、そのために自分の人生を投げ捨てられること、運が己の味方をすること。これらもまた、スターにとっては容易に満たされる条件であったかもしれないが、スターではなかった(あるいは、今の段階ではそうではない)バックコーラスの人々たちには、容易に満たされる条件ではないのだ。それは、努力や仕事への真摯な姿勢だけでは決して得られない。実力ではない「何か」だ。その「何か」こそが、無慈悲にもスタートそれ以外の人々の約6mの距離を生み出しており、その差は時間と努力だけでは埋まらないのだ。さらに、もっと悲しいことに、岡田暁生がいうところの「録楽」の時代である現代においては、コーラスは多重録音で成り立つために、コーラスを起用して楽曲を作成するケースは減少しているのだ。スターはいつの時代にも必要とされてるのに、スターを引き立てる要素は、時代によって容易に変わり得るのだろう。

(ちなみに、僕は二つの点で留意することがあると思っている。まず、ミック・ジャガーが「たまにならいいけど、仕事でずっとUh~とかAh~とか言ってるだけは嫌だな」と語るくだりがあるように、バックコーラスにも才能はそれなりに必要だということ。そして、ワンダーが「心地よい、だけを追い求めるところから、少し抜け出ないといけないだろうね」と語っている点だ。スターになるにはそれなりの覚悟と意識が必要であって、それは天性によって得られるとは限らないのではないか)

 

 さて、これらの要素は確かにこの作品の核心となる部分ではあったのだが、この作品にはもっと多くの要素がちりばめられている。幅広い社会的文脈の要素に焦点が当たり、むしろそのあたりが重要かつ非常に興味深い作品だったと言える。例えば、牧師の娘としてゴスペルに慣れ親しんだバックボーンというものが、彼女たちには共通していた。また、白人女性から黒人女性へのバックコーラスの主流の変遷には、ウーマンリブという時代の潮流に応じた自己表現の可能性が垣間見えた。その一方で、性的な魅力を強調する服装(ないし役割)を求められることもあったし、プロデューサーやレコード会社との契約に振り回される場面もみられる。「白人のコーラスと異なり私たちは楽譜が読めない」ということを語るシーンがあって、本当に身一つで成り上がった人々にとっては、ネゴの面で不利なことも多かったのだろうと思う。あと、これは個人的に興味深いと感じたのだが、この作品における「スター」というのは、ひとりで芸術作品の創造に突き抜ける人、というよりも、作品完成のための色んな要素のマネジメントを丁寧にできる人、という印象が強かった。プロジェクトリーダーというか。ハワード・ベッカーの『アートワールド』が可視化されたような感じがして、その点で興味深かった。

 

 上映後の対談で、ピーター・バラカンがスターを取り上げた作品として、"Billie(Billie Holidayの作品)"とか"Amazing Grace Aretha Franklin "などに言及していたので、このあたりも鑑賞すれば、また色々と得られるものが多いのだろうと思う。ちなみにバラカンは、本作品で取りあげられた歌手たちのソロ活動の作品を見た感想として、一様に厳しい評価を下していた。「スターになれるかどうか」の境界線は非常に曖昧である一方で、スターであるか否かは、直感的かつ鮮明に表れてしまうのかもしれない。

別に僕がスターになりたいというわけではないのだが、グラデーションと程度の差こそあれ、世の中には少なからずこうした役割分担(スター/非スター)が沢山あって、そういう分担こそが世の中の序列を生み出しつつ、それなりに世界を機能させているんだろうな、などと思った。僕なんかは、アカデミアの世界をすぐに思い出すわけですが。