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イニシャルHの研究

「アイダよ、何処へ」の感想

「アイダよ、何処へ」

どことなく不思議な温度感があって、コメントを難しくさせる作品だと感じた。アイダは常に紛争そのものに加えて、国連の無力さやセルビア軍の野蛮さに対する怒りを抱えていた。そのいずれかは作品の要素として、物語に何か筋を通しているはずだし、普通それらはかなり過激な情熱が伴うと思うのだが、この作品はどことなく冷めているようにも感じる。劇中、唐突な無表情のダンスパーティのシーンが差し込まれるのだが、まさにあのような違和感と(どちらかというと良くない意味での)透明さがあった。国連ないし国際協調を進める国際機関が使い物にならない(というかあまりにも無力)という主張は、かねてからの毎度紛糾する安保理決議のお話だとか、最近のコロナウイルスに関連するWHOの(少なくとも日本における)存在感の薄さの中で、割と一般にも受け入れられると思う。でも、その組織がクソだからといっても、「クソはクソなりにやってんだろ!クソが!」と言わんばかりの大佐の中間管理職仕草の数々を目の当たりにすると、なんだか否定できなくなってくる。それどころか、「いや、それは無理だろ」と思わず言いたくなるほどの、アイダの家族に対する頼み込みが、なんだか「横暴」に見えて不快感すら覚えるようになるのだ。実際、この点については劇中で長子が直接アイダに伝えるシーンがあったはずだ。

 この作品の一番怖いところはそこだ。みんな死んでしまうのに、自分を犠牲にしようとしてでも、なんとか家族を守ろうとするアイダ。どう考えても美しいし、強いし、称賛されるべきふるまいなのだ。なのに、これを神の視点――というよりも、組織の論理――が見える立場に立つと、まったく無理な要求にしか感じられなくなるのだ。あれ、僕ってそんなにひどい奴だったっけ?そうなのかなぁ。でも職員が確かにバレたら殺されるんだし、協力できないよね、そうだよね……。なんかこの人わがままだな……そう思ってしまう自分がいることに気づいて、それが怖い。どう考えてもおかしいのだが、「パンを与え、女子供を守るセルビア軍と比べて国連は……」と、国連disさえ浮かび上がってしまう。どちらが道徳的に正しいのか、ということを一旦おいて、僕はちゃちな感性で国連を(その前はアイダを)否定しようとしてしまったのだ。いや待てよ、と。男をこんだけ殺戮してますぜ、あんた。と、心の僕が呼びかける。だけど、作者があのシーンを織り込まなければ、忘れていたかもしれない。その自分がとにかく怖かった。

 作者がこの作品にこめたであろう思いは、作品にはすぐには出てこない。むしろ、その反対側に鑑賞者を向かわせてみるような構成があって(僕はそう感じて)、だからこそそれが素晴らしいなと感じた。帰ってきたヒトラーも、ポップなヒトラーの扱いに常に笑ってしまう自分がいる一方で、背中にはいく筋もの冷汗が垂れ落ちる感じだったのだが、あのときの感覚も部分的には似ているかもしれない。うーん。

 

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これはだいぶ前に書いた感想で、もともとは本の感想も足し合わせてもっと長くなるはずだったのだが、元気がなくなったのでいったんこれだけ置いておく。

今読んでいる本は、沈没船の水中考古学、クジラのストランディング、目の見えない人との美術館巡り、日本の古典的ファンタジー言語学のエッセー、台湾の不思議な小説などです。機会があればこちらもまた。

消えた実家と、どこにもない実家

母親から、荷物――小包と呼ぶにはあまりに大きすぎるし、贈り物と呼ぶには素朴すぎる外観の――段ボール箱が4つ届いた。内容物は全て「書籍」と記されていた。ガムテープの端を爪先で持ち上げて、腕を目いっぱい伸ばして荷解きを始める。そういうことを都合四回行った。

 中に入っていたのは、僕がかつて実家においていた、卒業アルバムや集めていた漫画、そういったものだった。僕はこれを見て、懐かしいという感情よりも先に、「あぁ、本当に僕にとっての「実家」はもうどこにもなくなったのだな」という思いが先に現れた。

 実家とは何を指すのだろうか。僕はその定義を理解していない。ただ、自身が5歳の時点で既に大阪の市街地から郊外に両親は居を移したため、幼き日々のルーツの町は分断されてしまっている。それからも、両親の別離があり、まもなく僕は父方の家に住んでいたものの、また少ししてすぐに、僕は母方の家への移住を余儀なくされた。そして、大学生になったときに、その家もまた(観念的にであれ物理的にであれ)追い出されたのだった。僕の住む場所は絶えず不安定であったし、家族という概念も、紐帯も常にぼんやりしたものであった。だから、世間一般の人々が語るような「帰省してごろごろした」とか、「実家でゆっくりした」とかについては、今まで一度も経験ができたこともない。それはそれとして仕方のないことだ。僕の血族はみな、「家族として生きる」ことが苦手だった。別離が、「ただの親戚」のような距離感が、私たちには最適な遠さに過ぎなかった。それだけのことだ。

 それでも僕は、気まずいながらも実家に(諸般の事情で)戻るたびに、家に忍ばせていたよつばと鋼の錬金術師を眺めるたびに、「その場所で生きた日々」の記憶と再会することを唯一の喜びとしていた。僕のこれまでの人生で唯一、僕と両想いになった女性と交わした沢山の手紙や、二人で沢山撮った写真をしまい込んだ紙箱も、今僕の目の前にある。都会の真ん中の、孤独なワンルームに届いてしまった。あの場所で作り出され、閉じ込められてきた、僕の青春への扉は閉ざされてしまった。

 なぜ今、このタイミングだったのかはわからない。母が、この年になって唐突に、僕の姿形を思い出す何かを家に置くことが不快になったのかもしれない。もっとも、その思いがかねてからのものだったのかもしれないし(いつからかはわからないが、下手をすれば僕と母が同居していた時から、既に僕の存在にストレスは抱えていたのかもしれない)、ゴミと一緒に捨てないでいたことには、感謝するしかないのだが。とはいえ、たとえその真意がどこにあったとしても、思い出のキーボックスとしての役割を母の家はもう失ってしまった。僕はその役割について、母の家を「実家」と捉えていた。それがない今はもう、そこはただの血縁者が住む家に過ぎないのかもしれない。僕のための場所はもうそこにはないのだから。

 早く適当な男でも見繕って、どこかで幸せにやっていてほしい。僕は母の家を出た時からそう思っている。もっと早くに、その願いをかなえられるように、僕は独り立ちするべきだったのかもしれない。そうすれば母は、幸せに生きられたのかもしれないし、生を授かったものとしての、過度な責任感を抱える必要もなかったと思う。その世界線には、もしかしたら、僕が「よくある実家」を手に入れる可能性もあったのかもしれない。いずれにせよ、僕の選択、母の選択、それを後押ししたお互いの様々な変化や環境が、僕の心の中の「実家」を確実に解体させてしまった。それだけの話だ。

 とりとめもない話ですが。

女のいない男たち、トムボーイ、プロミシング・ヤング・ウーマン

 先週観た「ドライブ・マイ・カー」がかなり良くて、今週の日常生活の間にも余韻がちりばめられてしまって、中々な悩みとなっていた。

 そういうわけで、この映画の原作となった短編集を読んだ。

女のいない男たち(村上春樹、2016、文春文庫)

映画に該当する2編は存外あっさりした物語で、そこまで深く印象にも残らなかった。そういう点から、今回の映画は本当に脚本が素晴らしいし、脚本に留まらず作品全体としても素晴らしいのは前に書いた通りだと、改めて感じた。やはり機会があればもう一度観たい映画だと思った。長い上にテンポが比較的ゆっくりした作品なので、家で見るよりも映画館で観たほうが良いと思う。今年ベストになりそう。

・・・

 昨日はトムボーイとプロミシングヤングウーマンの2本を観た。

www.finefilms.co.jp

トムボーイは、「燃ゆる女の肖像」の監督を務めたセリーヌ・シアナの作品。10年前に公開されて、欧州で様々な賞を獲得したようだ。

内容としては、男の子になりたい女の子("ミカエル")に主眼が当てられている。シーンの転換ごとに映し出される妹の「女の子らしさ」を感じさせる嗜好や遊び方が、主人公との対比を強く印象付けていた。音楽の用いられる場面は非常に少なく、それが緊張感というよりもむしろ、日常を覗き見るように感じさせられた。カメラのアングルも相まってか、もう一人の妹/弟として家族に入り込んだような雰囲気があって、深刻な悩みを扱うようでありながら、そこまで気負わずに見ることができた。子供のふくらはぎだけをカットの入りで数秒見せた唐突さというかアイデアの突飛さとかが、どこか子どものそれを感じさせたのかも。

 子供の世界というのは、大人になってしまうとどこか美化されがちなのだけども、実際にはいじめもあれば差別もあって、それなりに過酷だし、キツいところもある。今回はそれに加えて、主人公がかなり複雑な問題を内面的に抱えている。そういうところが当たり前のように描かれているのだが、作品を重たくはさせていない。そういう描写が良いなと思った。あと、「燃ゆる女の~」でもそうだったけど、この作品はどこか自分の時間感覚が狂わされるところがある。90分なのにもっと長く感じる。監督の作風なのかな。

 

プロミシング・ヤング・ウーマンは普段の僕はあまり見ない、大きい映画供給会社(ユニバーサル)の作品だった。挿入歌の入れ方や役者のチョイス、カットのあれこれがだいぶブロックバスターらしさを感じさせて、これはこれでよいと思う。この作品の面白いところは、重要な役割を占める「ニーナ」が全然出てこないところにある。あくまでカサンドラに寄りそう構成なので、狂気の度合いがますほど、話が進むほど、「あぁさぞ素晴らしい女性だったんだろう」と思わされる。……のだが、実際には、一歩引いて考えれば、カサンドラは初めから終わりまでずっと頭がいかれていて、「一瞬だけまともに見えた」というのが正しいように思える。最後の警官の捜査に対する両親やライアンの「彼女はおかしかった」という指摘はあくまで正しい。もちろん、それなりの事件であっただろうことを考えれば、ある程度納得はできるけども、「ニーナにアルが張り付いておかしくなった」というカサンドラのセリフは、彼女に対してそっくりそのまま言えることではないか、と思ってしまう。カサンドラにはニーナが張り付いている。呪縛のように。最後の最後のシーンは、いかにも創作らしいどんでん返しの仕組みになっているのだが、現実の世界から眺める僕は、その手前でいつも被害者が消えているのだろうな、と思う。隠されて、忘れられて、苦しみ続ける。そういう人たちがいるし、それは今の社会のパワーによって無理やりに抑え込まれてしまう声なのだろう。というのが、もしかしたら枕で声をかき消すシーンが想起させたかったことなのかもしれない。 

 この作品を見ている間、僕はずっと『ミズーラ』のことを思い出していた。その本の内容はかなり忘れてしまったが、「将来有望な男子学生の芽を摘むのか」といった擁護や、「証拠が不足している、女性にも責任がある」といった女性被害者への批判(ないし「落ち度」としての指摘)は現実に存在するようだ。内容的にも物理的にもヘビーな1冊だが、この作品のテーマに関心を持つ人であれば、得る物は少なくないはずだ。

www.akishobo.com

 

今思ったけど、promising って前途有望みたいなニュアンスだし、たぶん「若さ」を暗に示すようなワードだと思うのだけれども、それがわざわざyoungって形容詞にかかっている。ともなると、若さを失った(30になった)彼女の物語がpromising であった可能性は元からなかったのかもしれない。中々つらい作品だ。やっぱり創作でよかった。死んだ人間はずっとpromising、ということもできるので、二人ともpromisingであり続ける――ただし、その期待値は永遠に現実のものとならない――ともいえるのか。うーん、どっちにしろ辛いところだなぁ。創作でよかった。

 

「ドライブ・マイ・カー」を観た

「ドライブ・マイ・カー」を観た。とても良かった。

 

youtu.be

 

あまり事前に情報を入れずに見ていたので、エンドロールになってようやく、村上春樹原作だと知った。言われてみると確かに、「僕」という一人称に、やけに多い性描写、文芸らしさを感じさせる少し複雑で長いセリフなど、村上春樹の存在感は作品のあちこちにちりばめられていたようにも思える。

この作品は、誰も言葉を発しない、無言のシーンが多くて、それがとにかく印象深い。例えば、手話を使う俳優が演じるシーンというのは、大体において言葉が交わされない。無言だ。クライマックスの舞台の本番での長いシーンは、音のない映像がずっと続く。ただ、そのシーンから伝わる想いの強さ、というか、セリフが持つ言葉の重みというものは、この映画の中でも特に際立つ場面の一つであったように思える。それと似たような話で言えば、赤色のクラシックな車、というのも日本の風景で撮影されたシーンのなかで、常に目立つ存在だった。奇抜なデザイン、というほどでもないというのに。

それに関連していえば、三浦透子の演じる渡利はその存在感が際立っていた。言葉数は少なく、表情にも乏しい。それでいてさらに、車を走らせるシーンがその大部を占めるという人物でありながらも、落ち着き払った言葉遣いとトーンから発せられるその一言一言が深く、強く心に響く。そういう役柄を演じられる三浦透子がとにかくすごい。手話と渡利という二つの要素は、作中にも出てくる「沈黙は金なり」という言葉を具体的に示すための要素だったのだろう。

 この「沈黙は金なり」をはじめとして、どのような映像作品でも少なからずあるとは思うのだが、作品におけるシーンとシーンのつながりを連想させる表現が丁寧な印象を受けた。サーブの天窓からみさきと家福がたばこの灰を空に舞わすあのシーンは、後のシーンでの雪の中にたばこを挿すシーンを連想させる。何かのシーンは何かの答えにつながるかもしれないし、どこかで見た違和感は、やがてどこかで明らかになる(こともある)。それは現実の僕たちの世界でも往々にしてあることだけれども、作為性というよりは、世界のふるまいには背後の何かがきっかけとなっている、程度の自然さで提示されていたようにも感じる。ただし、このあたりの「何かを理性で整理したい」という欲求は、みさきが音について語る、クライマックスのシーンによって、どうも根本から破壊された気もするのだけれども。

 僕が好きなのは、何となくこちらで想像する余地が与えられている、いわば「余白のある」作品であり、この作品はまさにそういうところが面白かったと思う。最後の最後のみさきがサーブを運転する場所。なぜ彼女はあの町で、あの車を走らせているのだろう。それは誰と、どのような縁で。その答えを予想させる道具はあるし、話の流れから推察もできる。だけど、そこに答えはない。僕たちもまた、(スクリーンの前とはいえ)目の前の女性のふるまいを、それもその人そのものだとして、受け入れていけばいいのだろう。理性で理由と意味を追いかけるあまりに、現実から目を背けてはいけないのだ。そういうことになるのだろうか。

 あとは、芝居の中で芝居を作り上げる人々を演ずるのはすごく難しいだろうと思った。芝居ができる人が、芝居で苦戦している人を自然に演ずる、というのはとても難しそうだと思う(岡田将生の役の一部など)。

 

いずれにせよ、この作品ですっかり三浦透子にはまってしまったので、少し関連記事などがないのかを探していたが、いいものがあった。

 

没後20年、相次ぐ相米慎二の新刊を女優・三浦透子が読むわけ | ポップカルチャーの総合誌『ブルータス』 | BRUTUS.jp

 

役柄から離れたところでも、誠実に言葉を紡ぐタイプの人らしい。そして文章が上手い。相米氏の言葉、家福のセリフとして結構出てきているものが多いのだな。次は原作とこちらの本を覗いてみようとおもう。

 

道半ばの読書記録たち①

途中までは読んでいるけど、最後までは読み切っていない本の備忘録。こういうのをかいておくと、後から便利。それだけの話。

 

アパレル興亡(黒木亮, 2020, 岩波書店)

本当にありそうなアパレルメーカーの歴史を記した小説、という体をとっているが、その実はほとんど日本のファッション産業の歴史本という感じ。ノンフィクションとか伝記に近い体裁の小説であって、たぶん主人公やその周辺にも元ネタはあるのだろうが、先にそこを読んじゃうと興ざめかと思ってまだ調べていない。普段から経済ネタであーだこーだ喋るのが好きな僕はすごく面白いと思って読み進めているのだけれども、「なんかファッションをテーマにした小説でいい本ないですか?」と聞かれたときにお勧めするには少し人を選びそう。

天才はあきらめた(山里良太, 朝日文庫, 2018)

手に取ったきっかけはよく覚えていない。学生のころに住んでいた例の学生寮テラスハウスが流行していたころ、副音声での切れ味鋭い言葉に人気が集まっていた。そういうなつかしさのせいかもしれない。

テレビに出たといっても、そこだけがゴールではないほどの強い意欲のある人、あるいはもっと先にいける才能を持てる人にとっては、その先にたどりつけないことがとにかく苦しいようだ。僕にはM-1に出たことだけでも、とても果てしないことのように感じるのに、それだけでは満足できないらしい。とにかく「もっと先に行きたい(行けるはずなのにいけないからもどかしい、悔しい)」みたいな感情が強く出ていて、書籍という他人事で体験できる距離感であれば、どのエピソードも「わかるわかる」くらいで落ち着いてみていられる。だけど、自分の目の前や隣で、こんな苦しみ方をしている人がいたら、僕はどんな言葉をかけてあげればいいのだろうか、と凄く不安になる。

とはいえ、人生というのは大体において解決策やある程度の結論はありきたりなものになりがちなのに、そこに至るまでの苦しみ方は百人いれば百通りあるのだなとも思わされた。僕も次元は低いが、似たような悩みを抱えたときもあったので。そういう、ちょっと残酷だけど、だけど安全である程度適切な、第三者としての共感というものの一つ一つが、苦しみを和らげるのだろう、とは思う。

 

近代建築そもそも講義(藤森照信・大和ハウス工業総合技術研究所, 新潮社, 2019)

日本の(というか東京の)近代化にあたっての課題としてまず出てきたことが、「下水をどうするか」だった、というくだりをかろうじて読み切ったぐらい。これは結構面白そう。木の排水管は感染症対策の点でよろしくない、というところからはじまり、下水は早くに整備されたけど上水道までとなると、以外と時間がかかっている、みたいな話とか。全部の建物が防火/耐火になればそりゃいいけど、とりあえず延焼を食い止められるように、特定の街区だけをまず構造変えるようにスクラップビルドしましょう、みたいなところとかかなり面白かった。ちょうど建築基準法で防火・準防火地域とかやってたのもあるけど。読み進めたら建築基準法とか都市計画法の色々な規定がなんであるのか、とかもわかるのかなー。楽しみ。

 

マクベス(シェイクスピア著・安西哲雄訳, 光文社古典新訳文庫, 2008)

岩波出し福田恒存っていう名前からして難しそうなのでこっちにした。この前ハムレット読みはじめたら普通に読めそうなくらいわかりやすかったけども。まぁ文字も大きいし、これでいいのだ。僕は光文社古典新訳文庫が結構好きなのだ。有名すぎて特に語ることのほどもないと思うが、ようやくこれを読めたから、次はメタルマクベスとかいうのを見てみたい。マクベス夫人が夫にキレるあのくだり、序盤に出てくるくせに人生の真理を突きすぎてて辛い。


人生の花と思っていた王冠を欲しがりながら、臆病者で生きていくのですか?『やる』と言ったとたんに『やらない』と言い出して、魚は欲しいが足をぬらしたくない、ことわざにある愚かな猫と同じね」

 

はい。有名な作品なので、読んでる最中は(あれ、これってあのドラマの元ネタなのかな……)とか色々感じたと思うんですけど、ちょっと今思い出せない。

なにはともあれ、この物語の全体を貫いてる覇道政治と王道政治の循環と言いますか、後者から前者への変遷は内省的だったり社会文脈的に起こされたりするわけですが、そういうのを感じるにつけても、「正義の反対は悪ではなくて、別の形の正義なんじゃよ」っていうパワポケ7のあくの博士の名言が染みるわけです。

 

あとはクドカンの子育ての本とか、100分de名著の「高慢と偏見」の解説とか読んでます。どっちもめちゃくちゃおもしろいんだよなー。おすすめです。あとあれか、重版未定。

 

いつか別れるその日まで

ガールフレンドの話ではない。資本主義に脳髄まで毒された今の僕が絵空事を紡いでも大したモノは書けないだろう。そうではなくて、僕の祖母の話だ。

 

週の頭だというのに21時を回ろうかという時間に退社した。半日後にはまたこの場所に戻ってくるのか、と大変うんざりしながら寝床に続く裏道に入って私用のスマートフォンを取り出すと、知らない電話番号からの着信があった。滅多にないことだったので、宅配便か研究室の関連かと思って電話をかけなおすと、自分の母親だった。そういえば、AndroidからiOSに変えるときに電話帳を移行しなかったんだっけ。

祖母が倒れて、救急車で運ばれたと知らされた。

まぁ、年齢もそれなりだったと思うし、そこでは驚かなかった。

併せて孫の声が聴きたいとの伝言を預かったようだ。そういうわけで、電話番号をSMSで送ってもらって、僕は電話をかけてみた。

5コールくらいで受話器をとった祖母の声は、ずいぶん年老いたものだった。かつての不快感さえ感じさせるほどのエナジーは欠片でさえも見当たらなかった。5年も経てば人は老いるのも当然なのだが、声に死相が出るなんてことが世の中にあるとは思ってもいなかったので、僕は大層びっくりした。それとともに、なんだかあまりにも弱弱しい遠い向こうの女性の声に、ちょっと涙が出てきてしまった。

僕にもこんなにセンチな部分がまだ残っていたんだ、と新しい発見に少し驚きと喜びも感じたのは事実だが、それよりも実感を持った「知っている誰かの死」の衝撃が齢26にしてはじめて自分の真正面にぶつかってきて、これが中々重苦しい。

僕の祖父はどちらも既に他界しているが、基本的には血族の女に生前乃至死後も詰られ続けるほどに名誉もへったくれもない男どもだった。死人に口なしともいうので、その真相はわからないが、飲む打つ買う(打つは殴る方も含む)ような感じだったと聞かされている。そういうわけで、実際に訃報に接したときも、幼いながらに僕は、「あぁ、死んでよかったな」という他人ごとのような感情しか出てこなかった。それは文句ばかり言っていた女系家族にとっての幸せの第一歩なんだと信じていたからこそでもあるし、あるいは文句ばかり言われた男たちへの慰めの気持ちでもあった。釈迦の近所の蓮の上の方が、よっぽど気楽でよいだろうし。なんというか、そうなってくると、彼らの死はある程度望まれた死だったので、僕としては悲しみの湧きようがなかったのであった。

それが今度はどうかというと、実母との深い絆を育んできた祖母である。さすがにこれはリアルな人の死(が迫っている)ということになる。なるほど、もう会えないということがわかるとなると、確かに物悲しさも増すものだな、と実感を持って色々考えるようになった。このご時世では入院患者への面会もできない。手術が不首尾に終われば、そのまま次に会うのは火葬場の簡易ベッドの上になるかもしれないのだ。今さらになって、そういうセンチメンタルにさせる事実が日々僕の胸中を去来しては、頭の中を湿っぽくさせていく。

「あんたは偉い学者さんになると思ってたんだよ。今の仕事は楽しいのか。本当にやりたいことをやるんだよ」

やさしいけど死期迫る女性にこれを言われては、マクベス夫人よりも胸に刺さる。そうだ、お金はちょっぴり増えたけど、僕の幸せはちっとも増えてないさ。何か嫌なことがあっても、フィールド実験のリサーチペーパーは読む元気があるんだ。変な孫でごめんね。やっぱり僕はお金がなくたって、未来が薄暗くたって、今この瞬間の世界を探り続けたいらしいんだ。

「もうあんたはよくやったよ」

それはこっちのセリフだよ。僕が言わなきゃいけないことを、みんな祖母が言ってしまう。5年前よりも小さく、そして優しくなった祖母の口から大人びた言葉を聞くたびに驚いてしまう。釈迦との観念的な距離が近づくほど、人は誰かに優しくなってしまうのだろうか。彼岸への距離が近づくほどに、生気は失われていく。そして言葉には真実とやさしさが含まれるようになる。優しさはつるはしのように乾いた心を掘り下げて、時々涙の間欠泉を掘り当ててしまう。

その日は明日なのかもしれない。あるいは、何年も先かもしれない。誰にもわからない。だけど、その日は確実にやってくるのだ。それはとにかく悲しいことだ。だって僕は一緒には行けないから。僕は(もう半ばを過ぎたといえども)まだ人生を生きていかなければならない(と自分の中では思っている)。じゃあ僕もお供します、なんて言って三途の川でバタフライはしてあげられない。こういうことはいくらでも考えられるし、やがて時がこの悲しみを薄れさせていくことだって、頭では理解している。だけど、今はまだ、感情的な整理がつかない。

あまりにもありきたりなこの手の感情が自分の中にも確かに残っていることは嬉しいことだと思う反面、やはり胸がきゅっと締め付けられる。秋晴れは美しいのに夏ほどの輝きはない。どこか弱弱しく儚い光が肌を照らす。そういう二律背反な感じが、今の僕みたいだな、とこの頃一人でよく考えている。きっとこのどっちつかずな自分は、いつか別れるその日まで、僕の心に同居しているんだろうな。

別にそれだけの話なんですけど。

そもそもデザイナーって

前回に引き続き、勉強がてら図書館で背表紙で関心を抱いた本を好き勝手に読んだりしている。

 

1. そもそもをデザインする

「そもそもデザイナーって、普段どうやって仕事してるんだろ」みたいなことをちょっと前から気にするようになっていた。この前、イラストレーターの人とそのマネージャー的なポジションの人とお話しする機会があって、その時に「創造性いる仕事って、普通のマネジメントすると失われるのかもしれないですね。進捗の平均化というか、成果や納期が予測できる形になればなるほど、その役割に求められるものが生まれなくなっていく(ケースも少なくないのでは)と思います」、とか言ったのだった。

 デザイナーというのは画家や歌手のような並外れた創造性が必要で、それは何となく他の仕事と違うというイメージがあった。大御所の仕事の武勇伝は現代の凡庸な僕から見るとどれも現実味に乏しいし、かといって、就職活動用のパンフレットでは表層的すぎる(し、技術書は仕事のフローというよりも一工程しか示してくれない)。この本はそのあたりの課題が解消されているので良かった。博報堂の若手のデザイナーたちがいろんなお題(箸置き、昆虫食、からあげ、法医学、建設シート)を与えられて、クライアントのために沢山汗をかく姿を描いたドキュメンタリーみたいなものだと思う。

 この本は各テーマごとにクローズアップされる社員が違うので、五者五様の働き方を見ることができる。最後の方の文章にも記されていたと思うが、個人個人の生き方ないしは生きてきた中で得た技術と、彼ら/彼女らの性格によって、仕事への向き合い方やアプローチは全然違う。箸置きの担当者は、唐揚げの担当者の解決策は思いつかなかったと思うし、逆もまた然り、という感じだった。それは、目の前の素材の差よりも、個々人の目線とか切り取り方の問題のように感じた。お題をどこに差配するのかというのは、管理職の腕の見せ所であって、これはお題への理解と、部下の特徴の理解の双方ができなければならない。

 このあたりが上手く機能して、やっと事態は動き出すというわけで、そのあたりはあまり他の会社と変わらないのではないか、という気がした。そもそも、を考えるという姿勢も哲学チックではあるものの、もっとビジネスライクな言い方をすれば、知的労働者が好きそうな自己啓発本とかビジネス書にもたくさんありそうな話だし。「Aを考えれば/Bをすれば~~で成果/資産/恋愛etc...が上手くいく」みたいな書籍は色々あるし、その前提条件をできるだけ多くの人が満たせるように抽象的な法則を書いてくれてるのが、世の中のビジネス書だとは思う(「デザイン施行でビジネスが…」とか)

 とは言うものの、これまた書籍内でも言及されているように、本質/出発点から目の前の物事を考え直すことをできる/できないということにも、ある程度向き不向きによる。となってくると、「じゃあ、できる/できないの違いはどうして生まれるの?」みたいなことが気になってくる。遺伝なのかな。環境なのかな。ピンカー先生の本でも読んでみようと思います。

 

www.hakuhodo.co.jp

小説を書いてみよう。』も「創造的なものを生むことが求められる一方で、それを職業として安定的に行うために、どの程度まで仕事をルーチン化なり構造化しているんだろう」ということを気にして読みだしたと思う。

そのほかは、鑑定100番っていう世界の不動産の写真を撮った本も読んだ。台湾の大学の借地に学生マンション建てさせて更新時には物件ごと大学所有に変わる、みたいな制度は面白いなと思った。あとデトロイトのビルってみんな古いんだね。少年ジャンプの名付け親の自伝とかも読んだし、脚本の書き方、CMの宣伝効果を計量的に考える本とかもさらっと読んだけど、読み切ってないしそのうちまた。