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イニシャルHの研究

「ドライブ・マイ・カー」を観た

「ドライブ・マイ・カー」を観た。とても良かった。

 

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あまり事前に情報を入れずに見ていたので、エンドロールになってようやく、村上春樹原作だと知った。言われてみると確かに、「僕」という一人称に、やけに多い性描写、文芸らしさを感じさせる少し複雑で長いセリフなど、村上春樹の存在感は作品のあちこちにちりばめられていたようにも思える。

この作品は、誰も言葉を発しない、無言のシーンが多くて、それがとにかく印象深い。例えば、手話を使う俳優が演じるシーンというのは、大体において言葉が交わされない。無言だ。クライマックスの舞台の本番での長いシーンは、音のない映像がずっと続く。ただ、そのシーンから伝わる想いの強さ、というか、セリフが持つ言葉の重みというものは、この映画の中でも特に際立つ場面の一つであったように思える。それと似たような話で言えば、赤色のクラシックな車、というのも日本の風景で撮影されたシーンのなかで、常に目立つ存在だった。奇抜なデザイン、というほどでもないというのに。

それに関連していえば、三浦透子の演じる渡利はその存在感が際立っていた。言葉数は少なく、表情にも乏しい。それでいてさらに、車を走らせるシーンがその大部を占めるという人物でありながらも、落ち着き払った言葉遣いとトーンから発せられるその一言一言が深く、強く心に響く。そういう役柄を演じられる三浦透子がとにかくすごい。手話と渡利という二つの要素は、作中にも出てくる「沈黙は金なり」という言葉を具体的に示すための要素だったのだろう。

 この「沈黙は金なり」をはじめとして、どのような映像作品でも少なからずあるとは思うのだが、作品におけるシーンとシーンのつながりを連想させる表現が丁寧な印象を受けた。サーブの天窓からみさきと家福がたばこの灰を空に舞わすあのシーンは、後のシーンでの雪の中にたばこを挿すシーンを連想させる。何かのシーンは何かの答えにつながるかもしれないし、どこかで見た違和感は、やがてどこかで明らかになる(こともある)。それは現実の僕たちの世界でも往々にしてあることだけれども、作為性というよりは、世界のふるまいには背後の何かがきっかけとなっている、程度の自然さで提示されていたようにも感じる。ただし、このあたりの「何かを理性で整理したい」という欲求は、みさきが音について語る、クライマックスのシーンによって、どうも根本から破壊された気もするのだけれども。

 僕が好きなのは、何となくこちらで想像する余地が与えられている、いわば「余白のある」作品であり、この作品はまさにそういうところが面白かったと思う。最後の最後のみさきがサーブを運転する場所。なぜ彼女はあの町で、あの車を走らせているのだろう。それは誰と、どのような縁で。その答えを予想させる道具はあるし、話の流れから推察もできる。だけど、そこに答えはない。僕たちもまた、(スクリーンの前とはいえ)目の前の女性のふるまいを、それもその人そのものだとして、受け入れていけばいいのだろう。理性で理由と意味を追いかけるあまりに、現実から目を背けてはいけないのだ。そういうことになるのだろうか。

 あとは、芝居の中で芝居を作り上げる人々を演ずるのはすごく難しいだろうと思った。芝居ができる人が、芝居で苦戦している人を自然に演ずる、というのはとても難しそうだと思う(岡田将生の役の一部など)。

 

いずれにせよ、この作品ですっかり三浦透子にはまってしまったので、少し関連記事などがないのかを探していたが、いいものがあった。

 

没後20年、相次ぐ相米慎二の新刊を女優・三浦透子が読むわけ | ポップカルチャーの総合誌『ブルータス』 | BRUTUS.jp

 

役柄から離れたところでも、誠実に言葉を紡ぐタイプの人らしい。そして文章が上手い。相米氏の言葉、家福のセリフとして結構出てきているものが多いのだな。次は原作とこちらの本を覗いてみようとおもう。