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イニシャルHの研究

「愛が世界を救います(ただし屁が出ます)」感想

 

stage.parco.jp

これの感想です。当日券がまだあるのかは不明。

 

前書き

コロナが広がる随分前から、僕たちの世界には録音された音楽が沢山あふれていた。それでも、ライブは当たり前のように日常に溶け込んでいた。非日常の空間で観客としての私たちが熱狂することには、経済的な意味であれ、創作者や表現者たちのモチベーションの維持という意味であれ、芸術を受け取る時空が多様化していった現代世界においても、確かに重要な意味を持っていた。だけど、感染症の広がりは、僕たちから生の音楽を奪い去ってしまった。そういうことは、岡田暁生の『音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日』に沢山書かれている。僕も当然、大多数の人々と同じように、ライブというものに行かなくなってしまった。だから、これが生の表現に再会できたのは、ずいぶん久しぶりのことだった。「何年ぶり」とか、そういう枕詞が必要なくらいに。同じ楽しみを共有している人々が誰も触れ合わずに、それぞれ突っ立って開場を待つ、あの何とも不快な会場待ちの時間さえ、どこか懐かしく感じられたほどだった。

 

本題

作品としては、僕が宮藤官九郎の作品で好きなものが全部入っている。相変わらず設定は突飛なのに(SF、屁、LGBTQ、家族、パンク、愛などがキーワードになる)全てが一つの世界に収束していく筋書きに加えて、間に入る風刺や時事ネタ、何らかのオマージュ。これらの要素が、地上波の時よりもだいぶ突っ込んだものになっている。設定は無茶苦茶だが、二人の若者の青春ラブストーリー(+友情、家族愛)というシンプルな筋書きがしっかりある。そういう点は、田島列島の「子供はわかってあげない」に通じるところがあるかもな、と感じた。楽曲パート(もといダンス)は歌詞や脚本に笑いも沢山仕込まれるものの、音楽自体はしっかり聴かせるものだった。

 作品の小ネタとして過去のPARCOシリーズの設定が応用される点が所々にあり、往年のファンの心をくすぐるだろう。この点、もう少し抽象的に言えば、作品世界と僕たち観客が現実に生きている世界の視点を容易に行き来できるのは、舞台というリアルタイムな表現空間ならでは、なのかもしれない。これは、第2幕終盤での三宅弘城の役柄の兼ね合いで、特に笑いを引き寄せるスイッチとなっていた。

 宮藤官九郎荒川良々三宅弘城、伊勢志摩、少路勇介、よーかいくんなどはいつもの大人計画らしさを支える役どころと掛け合いが楽しい。無意味な側転や、肩透かしのようにメタな視点を持ち込むやり取りなど。村上虹郎、のん、YOUNG DAIS、藤井隆のパフォーマンスは音楽も芝居もよかった。大江千里のパロディの時の藤井隆は圧巻。個人的には、村上虹郎の歌唱もとにかく素晴らしくて、客席でも特によく言及されていたところだったと思う。YOUNG DAISは舞台パートと楽曲の両方で個性と魅力が強く感じられたし、今後も別の作品で出てほしいなと思う。宮藤官九郎作品は唐突なラップパートが入りがちなので、いくらでも出れるだろうし、実際に出てほしい。のんの役者としての、唯一無二な表現は、リアルな空間だとより鮮やかに感じられて、本当に良かった。見た目のかわいらしさだけじゃなくて、言葉や演技の中にどこまでもキュートな感じを織り込めるところが素敵だと思う。「私をくいとめて」とは全く違う雰囲気なのに、なぜか「そうそう、のんってこういう雰囲気だよね」と思わせる個性があって面白い。あと、ギターがかっこいい。

 音楽や声、身体の動きによる表現を同じ空間で浴びるとき、僕たちは当たり前のように五感を使って体感する。その当たり前は、こんなにも喜ばしいことだったのか、と痛感させられた。失われた当たり前の心地よさを、2時間強の会場の中でずっと味わい続けていた。劇中にはボーカロイドを用いる楽曲も存在するし、そこに伴うperfumeのようなサイケデリックな雰囲気のダンスは人間らしい動きを取り除くようなものではある。それでも、この音色を不特定多数と同じ空間で共有して、情感を持つ血の通った人間が無機質を表現する際に生まれる、表現と実態の隙間の温度を感じられたのは、リアルタイムの空間だったからだろうと思っている。体を揺らす喜び、手拍子を入れてリフレインを口ずさむ高揚感。

 過去を乗り越えて、どんな世界(あるいは未来)を作り出すのかということを模索するこの舞台は、誰も感染症のことを気に留める必要のない世界だった。そもそも、屁は嗅覚に関わる上に、距離がある人々には音さえも感じられない。そういう人間の当たり前すら今の僕の周りの世界から失われて久しい。誰かが以前言っていたと思うのだが、テレビドラマやアニメ、映画は今なお、マスクをつけていない世界で時間が進んでいく。今回の作品でもわずかにマスクを着用するシーンはあるが、それはあくまでごくごく一部での表現に過ぎない。そういう世界はもはや郷愁を呼び起こす過去であるともいえるし、「またいつかこんな日々を過ごしたいな」という未来への希望の断片でもある。幕が下りるまでの五感に浴びた未来の日常は、ライブの熱狂が僕たちの日常のそばに溶け合ったあの日々がまた、戻ってきてほしいものだなぁと改めて思い起こさせた。「生きていることが超能力」と言われるまでに過酷な世界でなくても、いいんだけれども。

 そして、今そこにない(今の世界では到底実現しえない)色々を、芝居であっても今実現するのは、大変なことが多かっただろうと思う。僕は今、この瞬間にこの作品を感じられてよかった。制作と上演に関わったすべての人が本当にすごいと思う。そういう人たちのおかげで、未来は現実になるし、芸術の喜びの継承が未来に向かって続いていくのだろう。そのためには、結局のところ、鑑賞者である一人一人の愛が求められるののだと思う。私たちの愛が芸術世界を救うのだろう。放屁もするし普通にすぎない存在一人一人の愛こそが。