木原『アイロニーはなぜ伝わるのか?』(2020, 光文社):語用論から皮肉の仕組みを考える
今月は10冊程度読んだのだけど、その中でも特に面白かった本のメモをここに残しておく。
はじめに
アイロニーはなぜ伝わるのか? 木原善彦 | 光文社新書 | 光文社(2020年1月16日発売)
趣味の範疇で本を読むときはタイトルで選ぶことが多い。この本もそうだ。それにしても、アイロニーなんて今まで当たり前のように使ってきたから、こんなことを改めて考えたこともなかった。よくよく考えてみればそのとおりで、アイロニーをさらりと使いこなしているのは、かなり不思議なことだ。
刑事 「刑務所での暮らしはどうだった?」
元受刑者 (皮肉で)「ええ、とても快適でしたよ」
(p34)
このシーンでの元受刑者による発話の表面的な意味というのは、その奥にある真意とは正反対のものである。もしも、「(皮肉で)」というフレーズが記されていなければ、読者は元受刑者の真意をつかめないだろう。
本書ではアイロニーを理解するポイントとして、以下の4点があげられている。
1.アイロニーはいかにして嘘と区別されるのか。
2.「言いたいことの反対/逆」というときの、反対とか逆とかいうのは、いったい何を指すのか。
3.アイロニーの非対称性。アイロニーは「けなす」ために用いられる。すなわち、「表面的に悪く言っているけれども、真意では褒めている」というケースはめったにない。
4.明言による失効。「これはアイロニーなんですが」とか、「これは皮肉なんですが」とか、あらかじめアイロニーであることを明示してしまうと、効果が失われる。
ちなみに、言葉を考える理論には色々あるようだが、意味論と語用論が本書ではしばしば現れる。
「Xは何を意味するのか」→意味論
「Xということで何を言いたいのか」→語用論
この本では特に、後者の語用論を中心にして検討している。表面上は破綻している会話が成立するのは含意のおかげだからだ。文字通りの意味と文脈から、含意を導き出すのが語用論である。
アイロニーを説明する理論
この本では、いくつかの理論を紹介して、アイロニーの説明を試みている。
まずは、グライスの「会話の格率」というものだ。『コミュニケーションの基盤である「協調原理」の下位概念として、「会話の格率」というものが存在する』と彼は提唱した。
・質:真実を語る。嘘をつかない。
・量:必要十分なだけ語る。
・関係性:当面の話題と関係ないことに飛躍しない。
・様態:明瞭で簡潔に秩序立てて語る。
これら4つの格率によって、会話が成立しているというものだ。この破綻がアイロニーを生んでいると説明できるだろうか。実は、これでは「ただの嘘」との違いが明確に区別できない。
次に検討するのが、「こだま的言及」という考え方だ。例えば、「ほんとに『今日は洗濯日和』ね」と『』(というか記号)でアイロニーの用いられている部分を強調すると、アイロニーが伝わりやすくなる。たとえ完全なおうむ返しでないとしても、相手の言葉を繰り返すことでアイロニーは成立しているかもしれない。そのことを、こだま的言及と呼ぶ。しかし、これでは先行発話のないアイロニーに対応できない。
偽装理論という理論もある。これは、アイロニー発話者は「愚かなふり」をしているとみなす考え方だ。暴風雨の日に「最高のお天気だね!」と言うのは、少し愚かに感じられる。そういう愚かな自分を、メタ思考で眺めるのがアイロニーの面白みなのでは?というものだ。しかし、「1+1」に「5」と答えることはアイロニーとなるだろうか?「狂人のふり」と「愚者のふり」は違うように感じられる。この理論では説明が不十分だ。
ここまでに3つの理論を持ち出してきた筆者だが、そのいずれでも説明が不十分になったのであった。そこで、筆者は語用論的逸脱、こだま的言及、偽装理論はいずれもアイロニーの副作用だと考えを改める。そして、アイロニーを説明するのは、実は「メンタル・スペース論なのだ!」と3章で切り出す(えっ)。そして、それは成功した。そういうわけで、3章はやけに長い。
メンタル・スペースとは、談話理解のための心的な表象空間のこと。この理論を用いると、アイロニーは「明確なスペース導入表現を用いることなく、期待という反事実的なメンタルスペースに言及するもの」(p62)だと定義される。
例えば、大雨のときに「今日はお出かけ日和ね」とアイロニーを持ち出すとき、発話者は現実世界の雨模様ではなくて「(期待通りであれば)広がっているはずの青空をみながら言っているのだ」と考える。
この理論で考えると、「明確なスペース導入表現」が不在なので、語用論として不適切な部分が生まれていると考えられる(会話の格率)。仮にこれを明示すると、解釈発見のインパクトがなくなるために、アイロニーではなくなってしまう。
また、汚いものを「きれい」だと表現するとき、嘘とアイロニーはどう違うのかということも説明できるという(偽装理論)。すなわち、
ウソ:聞き手によるきれい/汚いの評価の訂正を迫る。
アイロニー:きれい/汚いの二つの評価の対称性を浮かび上がらせる(p74)。
という違いがある。
メンタルスペースにおいて重要なのは、対照的な異なる概念を結びつけて差異を浮き彫りにすることだ。そこで重要になるのが、メンタルスペースのコネクターだ。青空と雨、俳優と役柄、客とかつ丼とか。これらはいずれも、因果関係とか近接性とか類似性とか、そういうった結びつきが存在するけど、明確に異なる二つの概念のペアだ。「青空と民主主義」というペアを考えてみよう。これは対比にも類似にもなりにくい関係なので、アイロニーには使いにくいだろう。
そのほかには、緩徐・誇張・シグニファイ・ラウディングなどがアイロニーにはあって、これらもメンタルスペースである程度、説明できる。
4章では様々な文学作品などから、アイロニーの事例を持ってきて、それをメンタルスペース論を中心にして解釈している。例えば、ジェイソン・ブレナンの反民主主義や、脱構築の概念。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』、トマス・ピンチョン、ゼクシウスとパラシオス、スペクトル派、ソーカル事件など。
感想
ハックルベリー・フィンのアイロニーのくだりはおもしろかったです。
構成として、メンタルスペース論の部分がめちゃくちゃ重くて、割と複雑。結構難しくて、3章の後半とかあんまりわかってないです。理論についてはもうちょっとツッコミどころがあるんじゃないか、という気もします。
アイロニーには適用できる親密圏の範囲が色々あるよな、というのは普段の会話から無意識的に考えていましたが、そこに納得の端緒を見いだせた気がします。
メンタルスペースのコネクターは、様々なスケールでの共同体(国家・自治体・家族・職場・学校など)での記憶や経験によって形成されており、個々人のコネクターの数や方向性はそれぞれかなり異なるのではないのでしょうか。思いつきにすぎませんが、「青空と民主主義」なんかも、自由やクリーンネスをほうふつとさせる青空(の色)が選挙ポスターに使われがちだとか、そういう観点からコネクターを結びられるかもしれないです。でも、僕自身は普通の会話ではこのコネクターを持っていないので、アイロニーが突然提示されると、困惑するでしょう。あるいは、共産主義者と民主主義者では政治に関するコネクターが異なっていそうです。出身地とか文化、社会的状況などの違いについても同じことがいえると思います。
また、コネクターの突飛さというか、隠れたコネクターというのもあると思います。お笑い芸人のコントや漫才のネタというのは、「予想外だけど、広く一般が納得できるコネクター」を見つけ出していくプロセスなのかなぁ、と考えました。
今回はこのあたりで。