Like a notebook

イニシャルHの研究

『ファクトフルネス』とアカデミアとロスリングについて考えたこと

前回までは、『ファクトフルネス』と『私はこうして世界を理解できるようになった』の内容を簡単にまとめて、少し感想を述べた。

 

今回は、これらの書籍に対して、その他の書評がどのように評価したのかを少しだけ紹介する。そして、nature誌に掲載されたハンスの評伝を中心に、彼がいたグローバル・ヘルスという学問に関連付けて、改めて『ファクトフルネス』に対する私の所感を述べる。

chanma2n.hatenablog.com

chanma2n.hatenablog.com

Factfulnessに対する評価

 Factfulnessにおいて、ハンスはしばしばジャーナリズムに対してかなり否定的な見解を示していた。それでは、新聞社をはじめとした既存のメディアはいかなる書評を掲載したのだろうか……というと、特に何もなく、穏やかな反応にとどまった。NYTimesは非常に短い内容説明にとどまっているし、The Guardianにはスティーブン・ピンカーによる好意的な書評が寄せられている[1]。ピンカーの著作は同書においても引用されているし、そもそも彼らの世界に対する認識は同じだからだ(ピンカー『暴力の進化史』など)。そのことに問題があるわけでもないが、彼の指摘を踏まえて、ジャーナリズムの価値を改めて強く訴えるような論説がみられたらもっと面白かったのに、と私は思う。

ビル・ゲイツの書評(における絶賛)はこの本の説得力を増す道具として頻繁に用いられているが、ビル&メリンダ・ゲイツ財団が彼を支援していたし、かつてはピンカーの書籍を同じように推薦書に挙げており、ポジティブな世界観に基づく書籍を好んで読む傾向にあるようだ[2]オバマの推薦文は5冊のうちの1冊という位置づけだった[3]。アカデミックな文脈で言うと、Heatlh Affairsにも書評があったけど、別の本の紹介の前座みたいに扱われていて、そこまで踏み込んでいなかった。

 goodreadsという書評まとめのサイトでも概ね評価は高かった。その中でも、Emily May氏による、「平均化された数値への疑問を呈す姿勢を推奨しているのに、チンパンジーテストの回答には平均値が用いられている。そして、あの質問における「低所得国」とか、女性の「初等教育」といった単語には質問者による定義が示されておらず、恣意的ではないか」[4]などと指摘されている。Tomas Ramanauskas氏は「個人的な経験の描写が多いが、そうした記述が冗長に感じられる。事実を伝えるというコンセプトとの一貫性が薄まる」と述べている。これらの指摘は私個人としては共感できるところがあった。

 

『私はこうして世界を理解できるようになった』の評価

 こちらについては日本語、英語ともに書評がほとんど見当たらない。Goodreadsには書評が102ほど寄せられている。冗長さを指摘する意見はあるものの、全体としては高い評価を受けている。日本語ではこちらの書評しか見当たらない。たまたま手に取りましたって感じの大学生によるもの。

 

ハンス・ロスリング自身に対する評価

書評というわけではないが、nature誌に掲載された、サイエンスライターAmy Maxmenによる評伝は、今回色々と読んだ批評の中では一番良かった。そのなかでも特に興味深いのは、彼とアカデミックな世界との間には断絶があったという指摘である。

 その要因はいくつか示唆されているが、実務家としてのハンスの成果は、研究者のコミュニティにおいては評価が難しかった、ということが大きい。彼は研究者コミュニティの評価軸となるような資金の獲得(日本でいうところの、科研費とかのことだと思う)、トップジャーナルへの掲載論文を誇っていたわけではない。例えば、Lancet誌には彼が著者となった記事が13本あるようだが[5]、研究に携わったペーパーは多くない。特に、2000年代以降は、統計データに関する1~2p程度のコメントが多くを占めている。また、彼はファクトの普及を使命としていたが、学者たちに向けてバブルチャートを披露する機会にはほとんど恵まれなかったようだ(ノーベル賞受賞者への講演はその貴重な事例だった)。彼が所属したグローバル・ヘルスという学問は、「分野横断的/学際的」であることを標榜する新しい分野であり、既存の「学会(界)」との交流は難しかったのではないだろうか[6]。 さらに言えば、科学者が未だ一般市民との対話を軽視する事情も影響していただろう[7]

一方で、この批評においては、彼自身がアカデミアの外で資金を獲得しており、科学者たちのコミュニティに関心を寄せなかったことも記されている。ラフな文体だけではなく、出典を記した巻末にWikipediaやウェブサイト、一般書が数多くを占めている点や、文中に近しい分野の学者の名前や先行研究の紹介がほとんど現れない点からも、そうした様子はうかがえる(ダヴナー・レヴィットによる『ヤバい経済学』(東洋経済新報社)などと対比してみるとよい)。

 ただし、ハーバード大学公衆衛生学部の学科長であるMichelle Williamsが推薦しているし、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院(LSTHM)の保健・人口学の推薦図書にも選ばれている。彼のキャリアを通じた評価の困難さと、書籍の価値の評価は全く別のところにある。

 

かつてグローバル・ヘルスを志した者として

 私は以前に少しだけ、ジュネーヴ大学大学院にあるグローバル・ヘルス学科に籍を置いていた。その経緯はさておくとして、ジュネーヴといえば、世界保健機関(WHO)の本部があるところだ。アカデミックな意味でのレベルが高いところは、他にもっとあったと思うが、日ごろからWHOの職員との交流も盛んだったし、まさにグローバル・ヘルスの最前線にいたといえるだろう[8]。まぁ、そういうのも、今にして思えば……の話ではあるが。

 ジュネーヴも、どちらかというと実務偏重気味で、やや学術は軽視されていた感はあった。WHOのステークホルダー分析の専門家が、学生からの少々込み入った質問に対して、「そういう定義の検討とかは、学者のやることでしょ。実務では必要ないの」と反論していたし、私自身も「現実(の途上国)ですぐに応用ができそうもない研究なんか紹介しなくていい」と(暗に)言われたことがあった。彼らのなかでは現実と科学は分断されていたように感じる。ハンスはそんな人ではなかったと思うんだが。

 私自身も、学際的な分野に対して、「表層的だ(superficial)」と批判する一部のアカデミアのたこつぼ的な感じは好きじゃない。ただ、だからといって、科学の積み重ねから得られたコンセンサスを行動規範としながら、難しい(本質的で抽象的な)議論を避けて、わかりやすい成果が出る対処療法だけをいつも追いかけるような彼らの姿勢も疑問に思うことはあった。グローバル・ヘルスは未だに、自分たちをどのように定義づけるのかについて、明確な合意がなされていないが[9]、世界の複雑さというよりも、そうした姿勢から学術的な検証を好まない傾向も関係しているのではないかと思っている。

 そういうことに関連付けるとするならば、Factfulnessという書籍にも多少、「わかりやすい成果」を選ぶような雰囲気は漂っていると思う。例えば、チンパンジーテストは彼の中での善悪の判断に基づいて、トピックが選ばれていた。電化もその一つだが、「電気が利用できるようになれば、暮らしがよくなる」という考えに疑念を呈した研究もある[10]。予防接種率が向上することは素晴らしいが、例えば疾病への対策費用というのは、成果が目に見えやすく、ファンドとしても支援しやすいという理由で、特定の病気が選ばれることもある。犠牲者の多さに見合った予算配分や関心が向けられていない疾病を「NTDs(Neglected Tropical Disease, 顧みられない熱帯病)」とWHOは呼んでいる。そもそもの被害の実態もわからないので、費用対効果も検討のしようがないといった面もある。実態がわからないのは、予算も技術も人員も割かれていないからなのだが、被害状況がわからないことは、「その疾病には大した被害がないこと」=「後回しにしてもよい課題」という意味になるのだろうか。つまり、「良くなってきている」ということを判断するための指標もまた、アップデートされる必要が(いつかは)あるということだ。何が「良い」のかということを、考えるべき時がある。

もう少し、人の内面に踏み込んだことを考えると、「古いファクトはどこからやってくるのか」という問題に突き当たる。そもそも、チンパンジーテストを間違えさせた私の知識というのは「どこから、いつから」やってきたのだろう。マスメディアに一切触れない人々、いかなるメディアにもあまり触れない人々というのは、本当にランダムに正解を導き出すのだろうか? 常識の起源や知識の流通路といった、知識のロジスティクスについてはまだ何もわかっていない。Factfulnessもやがては時代遅れになる。次の正しさを探すときに、10の本能を自認するだけで、私は望むものを見つけられるのだろうか。訳者は「学術的すぎると読者が離れる」と考えて翻訳の方針を定めたようだが[11]、大衆が学術書に対する忌避(あるいは嫌悪感)を抱えているのであれば、その姿勢にこそ向き合う必要があるのではないか。そこを抜きにして、これからも真実を、事実をつかみ取ることが可能なのだろうか。私はまだその答えを知らないし、知るための方法さえわからない。グラフで示すファクトに比べて、現実の世界というものは、それほどわかりやすくないのではないか。

 

など色々考えたのではあるが、私も答えが出せるわけではない。そして、最も重要なこととして、今の世界のデータを正しく、わかりやすく理解できる本書の価値は決して失われるものでもない。さらに言えば、私が意識するべき問題が、多少なりとも言語化できたこともまた、素晴らしい読書体験の産物だったとは思う。

あとは、そうですね。僕の懸念も原著よめば解決するかもしれないし、ウェブ訳注読めば解決するかもしれないです。ファクトはそういうところからしか見つけられないんで。先ず隗より始めよってことですね。

 

https://factfulness-source.chibicode.com/

 

余談

日本国内の書評はまぁ内容をまとめる上手さと手法の違いだけで、どれを読んでもそこまで変わらないと思ったが、瀧本哲史が産経新聞に載せた書評の最後の一行は味わい深い。

 

 

[1] 同紙はハンスによる同書の紹介文も掲載しており、むしろ好意的な姿勢すら感じる。

[2] ピンカーの書籍に比べて、本書はやや学術的精緻さに欠けると評している。

[3] USAトゥデーでは、ファクトを軽視するトランプ大統領オバマ氏と対比された。
https://www.usatoday.com/story/news/politics/onpolitics/2018/08/20/obama-summer-reading-list/1045965002/

[4]翻訳者のサポートページに懸念への回答が記されている。

[5] https://www.thelancet.com/action/doSearch?searchType=authorLookUp&author=Rosling,%20%20%20%20%20%20%20%20%20%20%20%20Hans&prod=LN

[6] 学際的な研究が評価されないという事情は、アカデミアのポストの問題に起因するかもしれない。以下を参照のこと:山脇直司.2004.公共哲学とは何か.公共研究(1),29-46. https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900021003/

[7] 市民への科学知の普及(科学コミュニケーション)活動への貢献度の大きさが、却ってアカデミアでの評価を下げることは、セーガン効果と呼ばれている(以下を参考のこと。『ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から』三井誠 著,光文社新書,2019年出版:https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334044107

[8] ちなみに、私はハンス・ロスリングがグローバル・ヘルスの学者だということを、今回の二冊の本を読むまで全く知らなかった。無知はどこにでもある。

[9] Beaglehole, R., & Bonita, R. (2010). What is global health?. Global health action3, 10.3402/gha.v3i0.5142. doi:10.3402/gha.v3i0.5142

Taylor S. (2018). 'Global health': meaning what?. BMJ global health3(2), e000843. doi:10.1136/bmjgh-2018-000843

[10] https://energyathaas.wordpress.com/2018/03/12/does-solving-energy-poverty-help-solve-poverty-not-quite/

[11] こちらを参照。https://note.com/chibicode/n/n89a607c3eec5