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イニシャルHの研究

フィスマン and ゴールデン『コラプション』:汚職の経済学の知見をわかりやすく紹介。

コラプション:なぜ汚職はおこるのか

(レイ・フィスマン,ミリアム・A・ゴールデン著.山形浩生,守岡桜訳.慶應義塾大学出版会.2019.)

 

www.keio-up.co.jp

この本との出会い

神保町か神田の、本屋とカフェが併設されている店で平積みにされていて、山形浩生が書いた読書案内のフリーペーパーが添えられていた(ハッパノミクスとかが紹介されていたと思う。手元にその紙がないので、後で見つけたら写真をのっけておく)。既に書籍を抱えていたし荷物を増やしたくなかったから、その場では買わずに販促のペーパーだけもらって帰って、後日改めて入手した。訳者・出版社・タイトルで買いだと思ったけど、改めて読んでみると当たりだった。各章の末尾ではキーポイントが再提示されるので、理解も進む。

 フィスマンのHPにはサポートページのバナーがそもそもなくて、ゴールデンのHPにはリンクはあるけど、肝心のURLが貼り付けられていない。まだページが出来上がってないみたい。早くしてほしい。山形浩生の方のサポートページは既に出来上がっているけれど、両者のHPへのリンクがあるのみで、今のところ誤字情報などは特に上がってきていない。

 

 

 前書き

腐敗や汚職に関する研究をまとめた書籍は、40年ほど前に出版されたものが2冊だ。その間に研究手法も洗練されて、研究成果の蓄積も進んだ。それらを紹介するのが本書の目的となる。

 

 はじめに

本書は、汚職の知見だけでなく、汚職を減らすための思考の枠組みを提供する。世界人口の半分以上は汚職が当たり前の国で暮らしている。汚職は社会的に良くない結果をもたらす。経済効率を損なうし(Ex: わいろで契約を得る業者は競争をゆがめる)、社会的格差を広げるし(Ex: サービスへのアクセスがわいろの有無やその量で決まるから)、民主主義の機能も減じられる(Ex: 政治家とわいろとか)。汚職は短期的には利益が得られるので、汚職を嫌う個人でさえも、そこに加担してしまうことも起きてしまう。だから、根絶が難しい。均衡としての汚職がある。すなわち、ある個人が周囲と別の行動を選択したとしても、全体の状況は変わらないため、個人だけが損をしてしまう。しかし、その全体というのは個人の相互作用から成り立つ。これは、シェリングの依存型行動contingent behaviorでもある。個人の行動が他人や周囲の期待に添うように振舞われる、大多数が誠実だと考えるか、不誠実だと考えるかで、社会における不正のはびこり方は決まる。

 

1章

汚職ひとつとっても、その内実は様々だ。企業による経済汚職と、政治プロセスの関わる政治汚職と。両者は別々のこともあれば、関連していることもある。政治汚職であれば、政府の公務員か、公選の政治家によるものかで、まず異なる。就職までのプロセスと、実際の職務内容によっても、汚職の内容は様々になる。汚職の測定が難しいのは、こうした前提条件の多様性に加えて、そこから利益を得ている人に直接尋ねることもできないし、汚職の定義が国や文化、時代によってその定義が異なるという事情がある(Ex: 政治家が引退後に民間企業の役職に就くのは、合法か違法か、社会的にOKかどうかなど)。トランスペアレンシー・インターナショナルの腐敗認識指数もあくまで、「認識の程度」を測定しているわけで、実際の腐敗についてのデータではない。認識調査や経験調査は回答者のやる気次第であり、さらに言えば、専門家と一派人では申告データの結果が全然違うということもある(ラザフィンドラコトとルーボーの調査による)。客観的なデータというのも確かに存在するが(ゴールデンとピッチによるイタリアの公共建設汚職の研究など)、これらはこの調査のために個別にあつらえたものであって、国際比較に用いることはできない。

企業による利益誘導としては、政治献金が多かった銀行はサブプライムローンをかなり熱心にやっていたという事例がある。そのほかにはアメリカでは議会委員会のメンバーが変わると、ロビイストも(委員会にとどまらずに)個人の政治家について行くとか。

また、引き立てと恩顧主義も汚職の形態として存在する。引き立ては試験に基づく任用を省略したり、標準的な手続きを迂回して職に就かせる。恩顧主義ではパトロンに対して、投票と引き換えに見返りを渡す。公共の利益を損ねる汚職と恩顧主義は関係することが多いとはいえ、支持者に利益を還元することが違法であるわけではない。汚職と恩顧主義は違う。      

3章

国レベルで見ると、貧困と汚職には相関がみられる。インド諸州においても、貧困と汚職は相関がみられた。汚職が貧困をもたらすのだろうか。貧困が汚職をもたらすのだろうか。両方ありそうではあるし、さらにほかの要因が、汚職と貧困の両方をもたらすこともある。また、意図的に経済成長を押さえているブータンや、平均所得は低いのに健康指標は先進国並みのケーララ州などのような地域が、適切な政治的リーダーシップによって、低所得でも低汚職を実現できることを示している。所得の低い地域では、票を買うためのお金も(高所得の国よりかなり)安い。票をトースターで買収できるとすれば? すなわち、有権者による効率的な監視が存在しないのだ。また、役人もわいろや横領で家計を支える必要が出るかもしれない。さらに英場、公認会計士とか、厳格な会計簿記システムとか、生体認証といった、金のかかる監視ツールも導入できない。厳格な汚職対策を実施するためのコストを国と企業が負担できなければならない。そして、「汚職があります」とメディアが普通に報じられる国は、むしろ不正が少ない方で、本当にひどい国であれば、そうした報道は許されない(Ex:ペルーのフジモリ政権)。また、反汚職キャンペーンも、政敵を蹴落とすためのパフォーマンスにすぎないかもしれない(例:習近平)。さらに、合法でも癒着が酷いかもしれない。 最後に、汚職がひどいインドでも選挙委員会は透明だと言われているし、ロンドンでも酷い汚職が発覚したことはある。汚職の均衡は特定の組織や文化における規範によるので、汚職の多い組織や地域を多く抱えるか少なく抱えるかの差はあるけども、低汚職=酷い汚職がどこにもないとかいうことではない。

 

4章

汚職による被害。例えば、手抜き工事は建物を弱くするので、労働者や市民に災害などで大きな被害を及ぼす可能性がある。また、わいろは貧困層に特に重くのしかかる。所得に占める割合が違うから。そのことが、格差を助長して、さらには政府への信頼を損なう傾向にある。「効率的汚職」という考え方があって、それは汚職はコストを生み出す規制をかいくぐる手段であり、経済発展には有益だというものだ。これは最近では主流の考え方ではなくなった。

 

5章・6章・7章

一般市民であれ、企業であれ、周りが汚職をしているところでは、汚職をするのが得策になるし、周りが汚職をしないなら、しない方がよいという判断になるだろう。たとえ、個人が汚職を嫌っていても、周囲の状況や文化的規範がそうであれば、やらざるを得ない。汚職で利益を得る人はどうかと言うと、公務員は倫理を守ることをコストとして、わいろをもらうこととの費用便益を計算していると考えられる。政治家は再選のために汚職をして、得た資金を政治キャンペーンとか買収に用いる。例えば、政治家が官僚をわいろの得られるポジションに任命すれば、見返りにわいろの一部をもらえる、とか。宗教はどうかと言うと、一つの宗教が行き届く国は、そうでない国よりも貧しいケースが多い。ただ、個人のレベルで見ると、宗教は死生観とか教えの点で汚職を防ぐ効果があるかもしれない。民族が細分化している国は、汚職が多い傾向にある。例えばケニアは、政治リーダーが自分の民族を優遇する政策を行う、ということを、リーダーが変わるたびに、それぞれの民族に対して行う。

 専制国/共和国、民主国/非民主国などの政治制度の違いが汚職の多さや少なさを決めるわけでもなかった。専制国では汚職の取り締まりも有効に行えるが、気が向くと汚職も派手にできる。また、大統領制か議会制かでも違いは見られないし、地方分権を行っても、権力を持つ人の心構え次第ではやっぱり汚職は発生する。どんな制度選択も汚職を阻止することはできない。

 

8章

汚職をする政治家はなぜ追い出されないのか。汚職よりも大事な政策があればその人は再選されるかもしれない。あるいは、有権者は誰が不正をしているのかわからないのかもしれない。ブラジルでは監査を行って不正をした候補者をメディアが報じたりすることで、再選する確率は確かに下がった。しかし、メキシコの研究では、不正をしている政治家を教えられても、投票率は激減したが、汚職のあった現職の得票率は変わらなかった。明確に正しい対抗馬がいなければ、情報を上げてもやる気をなくすだけかもしれない。また、対立政党が汚職を訴えても、ブラジルの有権者は報告について懐疑的になった。すなわち、対立候補への投票を促す「調整」が情報の他に必要になってくる。つまり、他の人も同じ行動をとるとか、同じ思いを抱いているとか、同じ知識を共有できているとか、そういうことを実感することが、個々人にとっては必要だ。行動するのが一人じゃない、と思えることが大事で、その知識の共有には、メディアが一役買っている。また、公的な場での学習会は「同じ知識を共有している」ということが肌でわかるので、タブレットで知識を与えるよりも効果が高いばあいがある(ピドウェル・ケイシー・グレナースターのシエラ玲於奈での研究による)。さらに、共有知識を得た有権者には手厚い厚生を与えようと、当選者が振る舞う傾向にもあるらしい。こうした調整は一度始まると、急速に社会変革を加速させることになる。イタリアでのマーニ・プリート捜査は一人の自白が、密告による不正の発覚を恐れた人々/企業の自発的な自白を促して、自白をしたい人の長蛇の列ができるまでに均衡が変化した。自白のインセンティブが変わった。イタリアは公僕の不正が減ったし、メディアは不正を良く取り上げるようになったけど、それも不正が減った結果である。そして、有権者が行動を起こすときには、外圧も有効になる。グアテマラでは国連機関が反汚職の取り締まりを行ったし、イギリスは香港の汚職撲滅のために組織(ICAC)を結成して、香港の警察の汚職を低下させた。マーニ・プリート捜査も、スイスの刑法改正でマネロンが禁止になったことや、ソ連の崩壊で共産党を支持できるようになった/キリスト教民主党を支持しなくてもよくなったことも影響していた。

 

9章

汚職を減らすには。例えば、公僕の給料を上げるという手段だが、給料を上げると同時に、規範を変えるとか、汚職を撲滅する強い意志を示す/有権者に態度の変化を期待させる、といった周辺の文脈の変化が伴わないと、「裕福になったわいろ好きの役人」が生まれるだけになるかもしれない。また、給料が高すぎると、正直でない人も公務員を目指す可能性が出てくるのだ(ベンジャミン・フランクリンは公務員は金以外の同期があるやつがやるべきで、それには無給が一番いいと考えていた)。

監視や取り締まりを改善して、わいろが高くつくようにすればいい。そのための機関を設置する取り組みはしばしば行われているが、実際には選挙の人気取りに終わることもある。政治トップが本気でないとダメだ。仮にそこが得られないとすれば、尚更有権者の支持は不可欠になる。レイニッカとスヴェンソンはウガンダの学校への資金提供の漏洩率を調査した。その結果、8割も資金は漏洩しており、5割以上の学校が金を全く受け取っていなかった。さらに言えば、低所得の地区の学校ほど、資金が届かなくなっていた。この事実を記録して、公表したら、漏洩率は1996年から2001年までに2割に激減した。新聞で報道することで、情報の伝達と、コミュニティへの「共有」が達成された。透明性も大事だが、それを活かす情報の共有も必要になる。

汚職の根絶にテクノロジーが有効であっても、汚職自体が「テクノロジーの導入を否定する」可能性がある。インドのNREGAという労働者への補助システム(100日の雇用と最低賃金の保証が提供された)が整備されたとき、政府の高官は幽霊労働者を用いたり申請資格のない労働者を使ったりして、不正に補助金を懐に入れていた。そのため、労働者の手取りは全然増えていなかった。その後、バイオ認証のカードをRCT的に一部の地域に導入したところ、導入した地域では従来の地域よりも手取りの賃金が増えて、賃金の受け取りまでの期間が短くなったことが報告された。この成果を受けて、燃料補助の支給にスマートカードを導入したところ、資金の無駄遣いが少なくなった。しかし、2014年の総選挙の前にこの制度は廃止された。補助金付き燃料にアクセスできなくなった闇商人が、闇価格を釣り上げたせいで、燃料を入手できなくなった市民も不満を抱いたからだ。燃料補助で利権を得る高官やロビイストたちの支持もあっただろう。闇市の価格は17%下がった。さらに、ガーナの2012年の大統領選挙において、生体認証カードを用いた投票記録を試みたところ、訓練を受けた中立な選挙監視員がおらず、立会人もいない投票所においては、立会人のいる投票所の2倍多く、機械が壊れたとの報告を受けていた。ハイテクは汚職対策とアカウンタビリティの改善に役立つが、その働きが邪魔されない仕組みづくりも同時に求められる。

メディアは政府にとっての不都合な情報を拡散させられるからこそ、権力者は管理を試みて、国の直轄事業にされるとか、王族が管理するという事情がある。独立したメディアは、市民には得られない正確な情報を伝えて、同じ情報を持っているという情報共有のコミュニティを生み出すことに価値がある。ソーシャルメディアも知識の共有基盤を生み出す速度が高まる可能性があり、その意味では有益かもしれないが、ソーシャルメディアのない時代から革命は起こされてきた、ということもまた事実ではある。

汚職集団がナッジによって行動変容を促されることはあり得るだろうか、というと、汚職の規範を変えることが難しいので、そう簡単にはいかないかもしれない。汚職においては、周りの人がどう行動するかが重要だからだ。「みんなが」一斉に変わらなければならない。こういう変化をトップダウンで引き起こしたいなら、強力なリーダーシップが必要であり、さらに言えば、そうしたリーダーの存在は、市民が反汚職を支持する行動をとるにあたって、有効に働く。

つまり、有権者の行動、外部からの変化、国家トップの反腐敗行動へのコミットメントが重要になる。

 

 

 

 感想

シェリングの『ミクロ動機とマクロ行動』は半年ぐらい前に読んでいた。

chanma2n.hatenablog.com

かなり気に入っているので、別の視点から彼の理論を扱っている文章に触れられたのは良かった。参考文献リストが充実しているから、その辺から色々辿れるのもよい。最後の方の「ハイテクは世界をそんなに良くしてないんじゃないのか」みたいな本(F.Morozov. 2014. To Save Everything, Click Here: The Folly of Technological Solutionism. Public Affairs. 432p.)が少し気になったけど、あんまり今の気分に合わなかったのでやめた。他に読みたい本はあるし、なんかちょっと長ったらしいくせに説教くさそうだなぁと思って……。ア〇イさんのお尻とかいうTwitterアカウントでも、似た趣向の論文がいくつか紹介されていたはずなので、関心が深まったらまずはそっちを参考にして、もう少し色々読もうと考えている。

 

togetter.com

このアカウントの論文紹介、更新止まっちゃったんだな。残念なことだ。

 

個人的には以下の2つの文章がかなり刺さった。論文と本の違いとか、良い研究って何だろうとかは前から色々悩んでいたけど、そこへの答えの一つが提示されていたというか。

「論文というものは、小さく考え、手短に書き、狭い質問をするように強制される。でも時には——決して常にというわけではないけれど——もっと大きく考え、長く書き、もっと広い質問に答えようとする必要がある。」(ⅳ)

「研究結果が積みあがっても、問題への答えは蓄積しない。」(同前)

 

よくわかんなかった箇所

第1章 図1.1 汚職を複数的均衡減少として描いた図

⇒横軸の「予想される他人の誠実さ」が増加すればするほど、誠実モデルの曲線の純利益が減少している。

p159. 4行目「別にこれは医療上の緊急事態とは思えないけれど、ただの定期健康診断のために時間帯を10本も越える人はいない」

⇒(タイムゾーンを「時間帯」と訳すのは知らなかったのだが)、インドネシアとドイツの時差って6時間ほどではないのか、と思った。

 

ページ記入忘れた)「これはもちろん、少年をディクシーランドから連れ出すことはできても、少年からディクシー色を消すことはできない」

⇒「ディキシーランドアメリカ南部のこと」と、グーグルには出てくるが、この言葉と同じなのだろうか。それとも米国で流行ったドラマとかカートゥーンなどの架空の固有名詞なのだろうか。

 

 

 

 

 

じゃあこのへんで。