Like a notebook

イニシャルHの研究

死蔵文書をザオラルした思い出

Ⅰ.導入

ずいぶん昔に——といっても実際には2年前のようだが、僕にとってはもう遠い過去のような話だからこのままにしておく——こういう記事を書いた。というか、このためにこのブログは生まれたのだった。

chanma2n.hatenablog.com

それについての説明をそろそろやるか…と、思い立ったのが去年の10月らしいので本当に自分の筆の遅さといったら。まぁそういうわけです。

Ⅱ.本文

日本には著作権という、創作物を保護する権利がある*1。今は著作者が死んでから70年まで有効だ。この権利が消失するまでは、お金儲けのために無断で内容を変えたり複製をしたりすることは許されないし、権利を侵害した著作物を手に入れたらやっぱり罰せられる場合がある。いっとき話題になった、漫画村とかを思い出せばわかりやすいと思う*2。反対に、この著作権の保護期間が切れたからこそ、青空文庫 を通じて過去の名作を読めるというわけだ。

先ほども述べたように、著作者が死んでから70年は著作権が有効なのだが、「作者が死んだのがいつかわからなかったら」どうなるのだろう。

この場合は、著作権がずっと切れない。したがって、著作物の公開はできない。たとえどれほどそれが歴史的に貴重な史料でも、作者が死んだのがいつかがわからない限り、図書館や大学がオンラインで公開することはできないことになっている。

さらに重要なこととして、こうした事例は決して少なくない。そのために、たくさんの資料はいまでも塩漬けとなったままになっている。国立国会図書館は、そうした文書の一覧を作成していた。大学の講義を通じて、僕はそのリストを閲覧したことがあり、そのときに教授から出された課題として、そこに掲載されている作品の創作者の没年を探すというものがあった。そのときのレポートが、このエントリだったというわけだ。

やりはじめてわかったのだけれども、これは本当に大変な作業だった。阿久津氏の没年を発見するまでには、何十人かの別の著作者の没年を調べることも試みている。、そのいずれもが最初に当たるべき記録の手がかりすらわからなかった。まぁレファ協の回答などを見ればわかるのだが、国立国会図書館の職員は本当に優秀なわけで*3

、彼らが見つけられないものが素人ごときにそう易々と見つけられるはずもないのだ。誰かの名前をグーグルの検索窓に打ち込んでは、該当する情報の少なさのあまりに断念して、別のターゲットに変えて、それもまた打ち切って…ということを繰り返した。その結果、比較的手がかりの多かった阿久津氏を僕は選び、ラッキーも重なって墓の情報までたどり着いたというわけだった。実際にどういうことをしたのかについては、冒頭に掲載したリンクから確認していただきたい。

ちなみに、阿久津資生で久しぶりに検索したら、この記事の上に国立国会図書館のページが出てきて、没年は出典のところも見ればわかるように、僕が調べたとおりになっていた。生年は数え方が違うかったのかもしれないが、まぁ同じような感じだったので、一応僕の説が認められたのかな…と思っている。

 

http://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00479464

Ⅲ.所感など

現実に何かが存在するということと、その事実にアクセスできるかどうかは少し違うものごとだな、と肌身で理解したのだった。すなわち、事実や存在というものが、データあるいは情報として加工・変換されて、アクセスできるようにされない限りは、インターネットみたいな情報だけの世界では存在していないことと同じになってしまうかもしれないのだった。

例えば、僕がケアンズの図書館に沢山ある日本語の書籍の棚にこっそり、村上春樹の『騎士団長殺し』を忍び込ませたとしよう。その瞬間に、その書棚には、『1Q84』や『ノルウェイの森』に続いて、新たな村上春樹シリーズが存在することになる。もしかしたら、オーストラリアで唯一かもしれない。だけど、図書館のデータベースそのものには、この書籍に関する情報はない。ぼくが黙って本棚に差し込んだからだ。すると、「この書籍は僕たちの生きている物質的な世界には確かに存在している。だけど、その情報が飛び交う世界においては、『騎士団長殺し』はいまだ存在していない」というずれが生まれる。誰かが発見して情報を登録しない限りは、書籍は情報社会からは失われたままの存在になるということだ。

今回のケースにおいては、阿久津氏に僕がいたるまでの幾人もの断念した著作者というのが、「失われた存在」だといえる。こうした二つの世界のズレが、著作権の保護というかたちをとって、現実の世界に大きな影響を与えているのだと知ったことは、結構な驚きだった。何年か経ってもう一度、「データがない世界」の問題に遭遇した僕は、このテーマへの関心を持ち、様々な場所で色んな事例に出くわしては、その重要性をひしひしと感じているのだった*4

 

 この作業をした経験というのは、ぼくのその後の人生…とまではいかないにしても、考え方などにそれなりに影響を与えたと思う。そのころまでは僕も「選択と集中」のなかで見捨てられる世界に対しての関心が強すぎて、権利や保護の行き過ぎが全体でみたときの大きな損失を生むという現象を、(個々の事例としてはわかっていても)幅広い領域で存在している、ある種普遍的な問題だということに気づいていなかったと思う。

この作業を始めたころには既に山形浩生の訳書や、彼の書評を参考にした読書を始めていたとは思うのだが、ローレンス・レッシグの『CODE』や『コモンズ』を読んだのはこれ以降だった。特に『コモンズ』における議論にはかなり関心を持って、マイケル・ヘラーの『グリッドロック』とともに、卒業論文の参考文献リストに入ったのだった*5

www.shoeisha.co.jp

 

www.shoeisha.co.jp

www.akishobo.com

*1:詳しく知りたい方は以下のサイトなどを参照していただきたい。著作権って何? | 著作権Q&A | 公益社団法人著作権情報センター CRIC 

*2:魔法先生ネギま」とかの赤松健海賊版対策には結構熱心で、色々やっている。こちらニュース記事でどうぞ

*3:例えば→

「一人の会はゼロの会。二人の会は神の会。三人の会は王の会。四人の会は悪魔の会」というフランスの古諺に... | レファレンス協同データベース

*4:そして情報を作るということの責任の重さも感じるようになった

*5:このころにはまだ『グリッドロック』の方は正式に出版されていなかったので、pdfファイルで公開されていた訳文のリンクを張り付けていたと思う。グリッドロックの書籍版も先日ようやく読み終えたので、そちらの感想もそろそろ書かないとな…。