Like a notebook

イニシャルHの研究

Qui trop embrasse mal étreint.

 

――抱きかかえすぎるものは、うまく抱きしめられない(フランスの諺)

 

 

1.entrée 

決断したって、迷わなくなるわけじゃない。これは、そういう話だ。

 

2.plat principal

 

"Apres tu fini tous les cours, qu'est-ce que tu fairas? "

講師が僕に言った。 語学学校は今週いっぱい、8月22日で終わりだった。だから、その後の予定はどうするのか、とフランス語で聞かれていたのだった。宿舎から出ていかなければならないし、9月の半ばまではロンドンにでも行こうかと思っている。ただし、思っているだけで、悩んでいる最中だ。何も決めていない。僕は、「わからない」とだけ答えた。 

"Apres tu retournes, qu'est-ce que tu voudrais faire dans la vie?"

フランス人の講師はさらに、僕に尋ねる。帰国したらどうするんだ…って?僕は出国前からずっとそのことについては悩んでいる。それどころか、それを探しに来たんだよ。今すぐにそんなあっさりと答えられるわけがない。日本語でも答えられないのに、ましてフランス語でどうやって!

また僕は「わからない」と答えた。

すると、教室中が大笑いした後に、シックというには少しキツい服装の教師が英語で叫んだ。

「君は本当にわからないことだらけだねえ!素敵な未来が待ってるだろうね!」

…京都人かお前は。

派手な赤眼鏡の質問攻撃に嫌気がさしたから、教室の椅子に体重をグンとあずけて、さかさめがねの窓の外をながめる。スイスの夏の空も、日本のそれと大して変わらない。きれいなものはどこでもきれいだ。それだけはわかる。

というか、それしか、わからない。

 

 

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僕の大学は本当に自由だった。興味のあることを好きなだけ勉強できたし、とにかく何かを強制された記憶がない。それにかまけて、僕はまず、英語をやらずにフランス語と中国語だけ勉強した。そのあと、生物学の授業や文学や映画の授業をとり、次の学期には情報科学と人口学と倫理学の授業を受けて、4年次にはヘルスケアの授業も履修して、卒業研究には社会学を参考にして海外と国内のスケートボーダー*1の参与観察をしていた。

大人はみんな、お世辞でも本気でも、熱心に勉強している僕の将来を楽しみにしていた。

僕も、はじめのころは自分の将来が楽しみだった。やりたいことも沢山見つかったから。だけど、僕は多すぎる好奇心に身を滅ぼした。僕は迷っているだけで、どこにも進んでいない。それしか、わからない。なにもわかっていなかった。

僕は年々、自分に「見えていたはずの将来」を蜃気楼に化かしてしまい、そんな自分に幻滅して、自己嫌悪をして、どんどん輝きを失っていった。

 

僕はどの手法にも精通しなかった。どこの世界でも同じで、つまみ食いだけの人間は、一つのことや同じことを突き詰められる人には敵わない。だから、テーマ設定からデータの収集までは優秀卒論の候補だと騒がれたけど、結果が出ると、かすりもしない惨敗だった。歴史の専門家と、農業の専門家に負けた。一つの論文には一つのテーマが必要だ。僕はそれを理解できていなかった。

 さらに、僕には調べる内容を一つの成果物として、上手に構成する能力が全然足りなかった。虫取りが得意な子供がみな、昆虫学者として有望なわけではない。自らの発見を自力で他人に理解できるような価値づけをできる人間こそが、学者だからだ。僕は自分の関心を、脳みその外に持ち出すことができていなかった。

悔しかった。だから、「これが僕のよりどころです」と明確に答えられる「何か」を次のステップで手に入れるべきで、研究のお作法も真面目に学ばなきゃいけないのだと思った。今度こそちゃんと勝ちたいと思った。そのためには、何かをがらりと変える必要があると思った。

——何を?

 

僕は研究分野と、研究対象と、環境を、変えると決めた。

健康と地域の関係性を研究するために、公衆衛生学(医学の関連分野)という分野で、海外で勉強することにした。全部が全部、それまでとは違うことだ。それぐらい大きな決断を迫られるほど、僕は追い詰められていたのかもしれない。

ヘルスケアを選んだ理由は単純だった。まず、知らないことだから勉強が楽しいと思った。需要も大きいし食い扶持がありそうな分野だ。そして、研究の質や枠組みに関する議論がかなり盛んだ。なにより、僕の研究室の若手のOBがこの分野で成功していて、具体的な成功例が身近にいた。

決断して間もなく、幸運が色々と重なって、WHOのおひざ元であるジュネーヴで、ヘルスケアの専門家を養成するプログラムに参加するチャンスを手に入れた。半年ほど、英語と映画と科学哲学を勉強してから、僕は本当に日本を発った。

 

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しかし、迷った日々は、この街でも僕を迷わせる足かせだった。

「あなたの名前、出身地、持っている学位/専門分野を教えてください」

うんざりするほどこの質問を食らったが、一度も自信をもって答えられなかった。名前は当然問題ない。国籍と出身地域も難しくない。僕の学位を教えることも、決して難しいわけではない。だけど、

"My background is ...Humanities."

(人文学です)

こういった瞬間に、揃ったように、みんなが怪訝な顔をした。あぁ、また始まった。僕はそう思う。

「ここはGlobal Health*2をやるところだぞ。お前は何しに来たんだ?何かの間違いじゃないか?」

実体のない心の声の矢がびゅんびゅんと飛んでくる。この界隈の人たちは本音をすぐに出さないのだけど、さすがに顔や声色は本音を隠せない。

——僕だってこの答えに自信を持っているわけじゃないよ。だけど、仕方がないじゃないか。これが一番正解に近いのだし、もっと厳密にいえば、僕には「専門分野がない」んだから。そもそも、君たちが「分野横断型なので、いろんな学問分野の人を求めています」と言っていたんじゃないか…。

こういうことをはじめのころこそ真面目に答えてはいたが、すぐに面倒くさくなってきて、「えーっと…特に社会学です」などとすぐに付け足すのが慣習になっていった。 

全然いないアジア系*3、全然いない男性、一人もいない人文学出身。マイノリティの三連複。とにかくきつかった。あんまり英語も得意じゃなかったし、医療分野の勉強もとにかく難しかったので、いつも「あと何日で休みが来るか」ずっと数えて過ごしていた。

何も専門知識がないので、とにかく無力だった。そんな僕にもできることは、三つだけあった。

一つ目が、準備をして、期日や時間を守ること。誰でもできることだけど、とにかくやらない人が多かった。論文を読むことは誰でもできるけど、「読みました」の一歩先として、要点を簡潔に提示できるように準備した人はいなかった。

二つ目が、聞くということ。色んな情報をくれる人が沢山いたし、たくさん喋る人ばかりだった。とはいえ、聞き手がなければ、語り手は存在しえない。日本では僕も話しながら思考をまとめていくのだけど、ここにはそういう人が沢山いたから、全然しなかった。

三つ目が、ずっと考えるということ。嘘みたいだが、「論文を5本読んで、その内容をもとに、自分なりの研究プランを考えてみてください」とお題が出されたときに、長い時間をかけて作業をしているうちに「5本の論文の内容を紹介する」ことへと目的がすり替わっている人はたくさんいた。

他人より沢山時間をかけて、目の前のことにじっと向き合うこと。それはもしかしたら、人文学特有の所作だったのかもしれない。だけど、本質的には「誰でもできること」だと思う。僕は依然として、「何者か」にすぎない。

僕はカクテルパーティーで、ダンスホールを外から眺める人だった。そこにいる権利はあるけれど、専門の知見とやらを活かせるわけでもないから、基本は眺めているしかできない。そんなふうにずっと過ごしていると、「いろんな国の、いろんな専門分野の学生を集めて、とっ散らかっている」というところが、僕そのものとほとんど同じだということに気がついた。

だけど、僕と唯一違う点として、「健康」というキーワード(正確には公衆衛生学/医学の素養)が前提にあって、そこに付加価値的に違う学問を足していくスタイルをとっていた。僕はこの場所から「違う何か」であることを求められていたのに、「何者でもない誰か」として過ごしていた。

その事実が胸に引っ掛かって、僕はずっともやもやした思いを抱えていた。それでも、忙しさのおかげでその気持ちとは向き合わずに日々を過ごすことができた。一瞬のように、夏が過ぎ、秋が来て、冬も終わって、春も去っていった。そして、季節は巡り、この街にまた、高い空と鋭い日差しの、さかさめがねでみたころの、あの暑い夏がやってきた。

気が付くと、一年前とは形の違う、だけど本質的には全く同じ迷いを抱えた僕が、鏡の前に立っていたのだった。

 

3.dessert

この決断が僕にとって正しかったのか、と言われるとわからない。研究手法の知識という意味では、望むものが手に入ったと思う。だけど、僕は自分の関心事を明確に言葉で伝えることには今もまだ成功していないし、結局迷いは常に小脇に抱えたままだった。

あるいは、「わからない」ということを体で理解するために、この街に来たのかもしれない。20だか30だかの国籍の人々と英語で意思疎通を図るとき、そこには彼らの本当の気持ちは全然乗っていなかった気もする。言葉が通じなければわからないけど、言葉が通じてもわからないことはたくさんあった。「わかる」なんてことは僕の世界に本当に存在するのだろうか?逃げ水のようなものなのかもしれない。

 

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人生はスイーツのように美しくも甘くもないから、映画のようにきれいな幕引きはどこにもない。結局、雄々しく偉大な決断が栄光に満ちた日々へ導くというような話はどこにもなくて、明日という名の今日の延長線上の未来に、ただ歩を進めていたのだった。その先にもたぶん、昨日までの絡み合った未知と迷いを、僕の身体からすんなり解きほぐす導き手はない。選ばなかった未来の可能性が放つ輝きは、明日のそれよりも眩しくなってきた。それでも僕は、明日も生きる。なぜかはわからないのだが、それだけは何となくそうだと決まっている。決断は迷いを前提とした行為だが、生きることについて、僕は迷わない。だから、これは、決断ではない。それだけを抱きしめて生きていければ、きっともっと、楽なんだけどな。

 

*1:彼らは「スケーター」と自称する

*2:グローバル・ヘルス。国際保健とも訳されるが、international healthが特定の多国家間の健康に関する諸問題を対象としていることに対して、グローバル・ヘルスでは国家という枠組みを前提とせずに、世界規模/諸地域での健康の課題を検討し、解決を目指す枠組みを指す。新興感染症や環境変動/経済格差と健康などを取り扱う。

*3:東アジア・東南アジア・南アジア・中央アジア出身は皆無で、西アジアが2人だけいた