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イニシャルHの研究

国立国会図書館の著作権処理実習の成果

2018/10/19

これ懐かしいな。この世でいつか需要があるかもしれないので残しておく。この記事そのものの説明は、そのうちやります。

 

 

阿久津資生についての報告。

 

 阿久津資生に関連する著作として国立国会図書館デジタルサーチで公開されているものは、『実用薬物学』の巻の一~四のみである[1]。ただし、それらは佐藤佐と校補を行ったものであり、彼自身の著作ではない。彼の没年について数年前に調べた記録がweb上には存在するが、参照されているリンクがすでに切れている[2]。このような事情から、阿久津の没年を中心に再び調べることは意義があると考えて、主には彼の著作物、彼自身の名前をGoogleで検索にかけることで、情報を収集していった。

 まず、阿久津資生の紹介をその周辺にも言及しながら述べていく。彼の子である阿久津三郎について述べた研究の中で、資生の略歴が記されていた[3]。それによると、阿久津家は大田原藩藩医であり[4]、資生は順天堂医院の初代院長である[5]佐藤尚中に学び、戊辰戦争など明治維新前後に軍医としての実務に当たった。その佐藤からの推薦を受けて、三郎は資生の養子となった。三郎は福島県相馬郡藩医の菅野三徹の子であるが、佐藤尚中も本名は山口舜海といい、佐藤泰然の弟子となったのちに養子となり佐藤の姓を名乗っているため[6]、当時の医者を志す人々の中では医師の養子になるということもとりわけ珍しいことではなかったのであろう。

 また、資生は明治9年に全校で統一されて与えられるようになった、医師免状を全国で353番目に取得している[7]。取得要件は医師免許の試験に合格するか、東京大学医学部を卒業するか、医師として十分な地位の公職に就任していることであり、おそらくは3番目の要件に該当したと考えられる。というのも、先述のように資生は順天堂の同主であった、佐藤尚中や佐藤進とともに、当時の医療における最先端を担っていたからである。実際、順天堂醫事研究會(現在の順天堂医医学会)が明治18年に雑誌としての研究報告書を出版するようになるのだが、資生はこのときに幹事として名を連ねており(会長は佐藤進)[8]、のちにはその代表に就任している[9]

 生前の資生についてweb上で記載されている情報としては以上のようなものとなる。次に、彼の没年に関する情報について述べる。彼の没年を探る手がかりとなるのは、彼の墓である。医学図書館およびその研究団体であるシソーラス研究会が運営する、「医学用語を歩く!」(http://sisoken.la.coocan.jp/ 2017/7/13閲覧)というwebページにおいて、「江戸東京医史学散歩」というコーナーがあり、そこで阿久津家の墓についての情報があった。阿久津資生が染井霊園、三郎が染井泰宗寺に埋葬されており、その情報の出典については「東都掃苔記(『日本醫事新報』)」と記されていた。阿久津家の墓については昭和30年の9月3日に出版された、1636号に該当する記事があるとされている。原本を確認することができたので、以下にその該当部の記述を一部転載する。

 

 

阿久津資生翁の墓

 

染井霊園一種ロ六號五側に、湯島の佐藤順天堂醫院創立功労者の一人である阿久津資生翁の墓碑がある。その表面には「阿久津資生 妻千嘉子の墓」とあり、裏面には「大正四年九月二十日歿 行年七十號蕉窓 昭和五年九月十六日歿 行年七十七俗名千嘉子」とある。[10]

 

 

 この記述を参考にすると、阿久津資生の没年は大正4年、つまり1915年であり、その年に彼は70歳であったことから、生年は1845年であったということになる。実習としては以上で十分なのであるが、「東都掃苔記」と、中西(1996)における資生の記述に関する齟齬があったので、報告しておく。

 中西によれば、既に述べたように資生は尚中に師事したとされているが、「東都掃苔記」では資生は佐藤泰然に師事したと記されているのだ。佐藤泰然の生没年は1804-1872年[11]であり、佐藤尚中の生没年が1827-1882年である[12]から、生没年からすればいずれに師事していたとしてもおかしくはない。ただ、尚中は15歳ごろから江戸に出て医学を学んだようなので[13]、仮に資生も10代半ばで医学を志したとすれば、1862年には泰然が横浜に隠居していることから考えると[14]、尚中の方が妥当であると言えるだろう。

 

 

 

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[1]http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/837433(2017/7/13閲覧)。公開は著作権法第67条第1項に基づくとのこと。

[2] http://www.shayashi.jp/courses/2013/moku2zenki/review.html(2017/7/13閲覧)

[3] 中西淳朗 1996.徳川昭武公の「順天堂入院日誌」について(第二報).日本医師学雑誌42-2,1482,p260-261.

[4] 中西の研究では「太田原」とあるが、大田原を誤ってこのように記入したと考えられる。

[5] 順天堂大学は和田塾を開いた佐藤泰然を創始者としているが、湯島の医院自体は養子の尚中が設立している。http://www.juntendo.ac.jp/way/president.html(2017/7/13閲覧)。

[6] https://kotobank.jp/佐藤尚中のページを参照。2017/7/13閲覧)

[7] http://doctor.shioya.verse.jp/?eid=41(2017/7/13閲覧)

[8] http://www.juntendo.ac.jp/facility/journal/back/ceo.html(2017/7/13閲覧)

[9] 注7のサイトを参考。

[10] 安西安周 1955.「東都掃苔記」(『日本醫事新報』,1636号,p50)

[11] 前注5参照。

[12]コトバンク 佐藤尚

https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%B0%9A%E4%B8%AD-69316(2017/7/23閲覧)

[13] 同上

[14] 高安伸子(2008)「佐藤泰然一族とヘボン」(『日本醫史學雜誌』,日本医史学会,54-2,1530,p111.)http://jsmh.umin.jp/journal/54-2/111.pdf (2017/7/23閲覧)