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イニシャルHの研究

実体なき虚像のはなし(ヒッチコックの名言について思ったこと)

2か月くらい前に、「映画の98%は音楽」と述べた映画監督を探したのだった。

chanma2n.hatenablog.com

そこで僕はヒッチコックじゃないのかなぁという結論を曲がりなりにも出したわけであるが、彼が述べたとされる「映画は散文というよりはむしろ音楽に近い」という言葉について少し思うことがあったので少し書いておくことにする。

たぶんヒッチコックはどこかしらで、これに近いことは確かに言ったのだと僕も信じている。他の大勢の人は特に考えずに、「これはヒッチコックの言葉だ」と信じているのだろう。その証拠に、この言葉は引用の長さに差はあれど、ウェブページだけではなくて、芸術学校の教材のスライドや、果ては先のエントリで示したような書籍にまで、この文章は「ヒッチコックの言葉」として引用されている。

しかし、Peterの記事がもうこの世に現存していない場合、少なくともウェブの世界ではもう誰もこの言葉がヒッチコックによってもたらされた、という根拠は出せないのだ。思い込みや、ひどい言い方をすればデマがヒッチコックの神格化に貢献して、本来は誰のものでもない(かもしれない)言葉をありがたがっているのかもしれないのだ。

そう思うと、下記の江頭2:50のデマツイートのようなはなしは、この世がネット社会になるその昔からあったのだろうなとも思わされる。

news.livedoor.com

例えば、桂離宮に関する評価というのは知ったかぶりの人たちによる誉めそやしばかりだという主張があるそうだ。山形浩生曰く、『つくられた桂離宮神話』(井上章一、1986)はそういう本らしい(こちらを参照:CUT 1991.06 Book Review )。

あるいは、巨匠のイメージに沿ったイラストが採用されるのが音楽家肖像画であり、「その作品のタッチから推察される作曲家像」というものに合致しない肖像は受け入れられなかったという逸話があるようだ。ヒッチコックのこの言葉も、そうした淘汰を生き抜いて今日まで生き延びているという可能性はありうるだろう。
(いまは日本にいないので確認ができないのだが、たしかこの本で指摘されていたと思う)

『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』渡辺裕 | 現代美術用語辞典ver.2.0

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E8%82%96%E5%83%8F%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B15%E7%AB%A0-%E9%AB%98%E9%9A%8E-%E7%A7%80%E7%88%BE/dp/4093860017

 

改めて言うが、ヒッチコック「ぽい」というイメージを良く表す名言ばかりが語り継がれていくのだろう。そして、その真偽は必ずしも重要ではないのかもしれない。彼らしくない彼の「本当の」発言が忘却され、彼は決して言わなかったような、彼の作風に合致する言葉が生き残っている可能性もあるということだ。

実像を大きく(あるいは小さく)見せるものばかりが虚像だと僕は思い込んでいたが、はじめから実像なんてものさえ存在しないところであっても、虚像が生まれるのかもしれない。「師匠シリーズ」というネット小説では、事故が起きたことのない路上に花を手向け続けて、そこが怪談スポットになっていくという話がある。実体のない幽霊が、人の言葉や心から生まれているのかもしれない。

 

www.pixiv.net

 

「そうかそれなら、文書できっちり引用元を明示しなければいけないな。データもちゃんと見れるようにしないとな」と言っていただけると、確かにその通りなのだが、果たして「誰がその確認をするのか」ということも次の課題になってくる。

僕は以前、WHOがNeglected Triopical Disease (NTD, 要するに被害は大きい割にあまり研究開発が進んでいない病気のこと)として指定したSnakebite(蛇に噛まれること)の被害者数の推計について調べたことがある。「被害の割に認知が進んでいない」という定義からして、なんらかの人口に対してそこそこ大きな数の被害者の推計が求められるのだが、実はこの数字が、2010年以降に出版されたWHOのリリースや、国際ジャーナルから出版された論文間でしばしば一致していない。

「異なる調査機関やデータソースによって、それぞれ異なる推計を出している」という状況であれば、ずいぶん建設的な議論もできたであろうが、話はそううまく転ばなかった。いずれの論文も参考文献をたどっていくと、結局のところは2本の論文の推計に依拠しており、その推定値(かなり幅が広い)から恣意的な数字を適当に抜き取った論文がいくつか生まれ、そこから孫引き論文がさらに派生していったのであった(これに関してはまた他の機会に取り上げたいと思います)。

過少な数値報告で本来の被害者が見捨てられることはすぐにわかるだろうが、過大な数値報告もまた、本来優先されるべきであった課題への投資を妨げることで、間接的に厚生を損ねて、ひょっとしたら救えたはずの命を奪っているのかもしれない。

 

まぁ何が言いたいのかというと、事実の前提を調べたりする人材ってのも、それなりに意味があるのではないかなという話でした。